「薬屋のひとりごと」の醍醐味はラノベ小説版にあるのではないか? | ゲヲログ2.0

「薬屋のひとりごと」の醍醐味はラノベ小説版にあるのではないか?



「薬屋」はラノベ小説版から入るべき?

「薬屋のひとりごと」のアニメ版をちょっと見たのですが、率直に言うと『これ小説向きの作品なんじゃね?』って思いました。というのもね、なぜあたしがそう感じたのか?という点を紐解くにあたり、なぜ「薬屋」がこれほど人気なのかということを参照していくのがイイと思うんですよ。そうすることで、なぜヒットしているのか?という点を踏まえ、客観的に批判的に外側から物事を見て取れる。ただこれ漫画版が二種類あったりでいろいろと複雑な構成をしている。ここはアニメ版とラノベ小説版をキーに説いてみます。

「薬屋」人気の第一項【賢い主人公】

薬学の知識を持っている賢い主人公という斬新な切り口。ここがまずポイントでしょう。「薬屋」を人気にしている第一最大の理由でしょうね。ミステリーがうまく出来ていて、ビルドアップがうまい。ここは小説版でもアニメ版でもまったく同じで異論なしだと思う。

「薬屋」人気の第一項【特異なラブコメ要素】

単純なラブコメではない。中世的な魅力を持っている人々を描き、またコメディの本質もそれほど甘々ではなく、リアリティがある。リアリティ、とまではいかないにしても捻りが効いていて、少なくとも単純な王道コメディでもない。性的に新しいコメディであるというのが第二の理由でしょう。

アニメの泣き所とはどこか?

でも、ちょっと待てよと思うんです。小説では限られた世界のレンジの中でもできることってあると思うんです。他方、アニメだと、アニメという舞台・世界観…つまりここでは中国文明のような世界観、なわけですが…限定的なリソースを基盤としちゃうんだよね。だから小説版でできなかったことをアニメ版で出来ても、小説版の魅力をそのまま映してアニメ化できるか?という点がここでは焦点になる。これなかなかムズイんじゃね?って思うんす。

クール制という罠

小説だと短編とか中編とかできるじゃないか。でもそれを一クールのアニメにはできんよね。SFでも短編中編の傑作、とされるものがアニメ化には至らないことが多い。クールというシステムもそうした現象に寄与する要素であることもありそうですが、そうした傑作小説たちの世界観だって人気とともに広いことがままある。限られた文字の中で、世界を拡張して伝える…そんなことが小説・地の文ではできると思うんです。

石原文学論争を振り返って

「薬屋」もこうしたSF小説の傑作たちと比肩してみるとわかりやすいです。例えば人間関係など、文字だと深く書くことが可能。心の機敏・さらに石原慎太郎のいった心身性ですよね。強烈な体験に基づいた、センセーショナルなものって書けるんですよ。奇しくも、「薬屋」は純文学ではありませんが、小説版を基盤にしているだけあって、小説向きの作風だと思うのです。

心理描画というラノベ最大の革命

アニメにしちゃうと、舞台が絞られる。だから心の機敏はあまり描けず、しかも舞台性という具現化した設定に縛られるため、なかなか、オリジナルな楽しみをそっくりそのまま映しましたよ!というわけにはいかんわけです。あたしは、「薬屋」のアニメ版を見ている途中にこのことを思い浮かべた。加えて、ラノベ業界では全体的に妙なことに純文学以上のしつこいほどの心理描画が求められる。それをアニメ化して大成功した例はあまり見たことがないです…

小説版の良いところは受け継いだ丁寧なアニメ化自体は全く否定しない

もちろんアニメ版がダメだとか言っているわけではない。でも舞台・キャラの踊り場が限定されていて、文字からの連想というバイアスがなかなかうまく見当たらない。だから誤解を恐れず言えば、”フツーのアニメ”になっているという見方もできるわけです。モチの論で、小説版の持つ素晴らしいところ(【賢い主人子】も【特異なラブコメ要素】)は、アニメ版も受け継いでいる。でも、読者的バイアスがないため、つまり小説と読者という関係性がそのまま転写はできていないのをあたしは感じたんです。

「薬屋」の泣き所・ステージ2

…とはいっても「薬屋」の持つ特徴がかなり革新的で面白いのは間違いがない。でもアニメ版は長々とみる気はしないですね。引き込まれる展開はあることにはあるが、バックグラウンドに巨大な世界観を感じない。最近の純文学小説もそういう傾向にあると石原は批判してましたが、その評論がそっくりそのままモダン化してアニメ版に適用されちまった・あるいは、アニメ版だからこそそうした弱点が明らかになってしまったとは思う。