なぜゲーム「XCOM」シリーズはクソゲーなのか? | ゲヲログ2.0

なぜゲーム「XCOM」シリーズはクソゲーなのか?



なぜゲーム「XCOM」シリーズはクソゲーなのか?

めっちゃ煽りましたが、この議題は重要なのであえて言います。『なぜ「XCOM」シリーズはクソゲーなのか?』インスパイア作も多く出てるほどの傑作と言われて久しい古典的な代表的IPですが、あたしは一通りこれらのゲームは買ってはいるものの、ぶっちゃけクソゲーだと思っています。なぜか?それはね、このゲームが根本から、『ゲームの一回性』の問題を抱えているからです。じゃあ『ゲームの一回性』とは何か?ここからこの議論は始まります。

ゲームとは本来賭博であるべきである

思うにゲームってのはね。画面に映るもののレスポンスに期待し行動を投射して、その結果のプロットにワクワク感を抱いてこそゲームなんだと思うんですよ。そしてそれは、賭博であるべきだ、というのがあたしの意見です。賭博じゃないとゲームじゃあない。賭博性があってこそ、見えない未来に賭けてワクワク感をヘッジするというのが、ゲームの本来のありかただと思うんですよ。たしかに「XCOM」にも、この『一回性の原則』に忠実なゲームモードもあることにはある。でも超マニア向けで、普通この「XCOM」はセービングとローディングを繰り返せば、誰でも苦労せずに勝てるゲームになっちまっている…極端に言えばね。そういうゲームって非線形のゲームじゃあないんだよね。「XCOM」ってね、非線形の上っ面を被った、線形モデルのゲームなんすよ。だから存在的な矛盾がある。本来ゲームってこういうもんじゃないだろってわけです。

全体≡部分・最適解vs非最適解・線形vs非線形

じゃあ、RPGはどうなんだ?って思うだろ。そう、この世のRPGは全てが全てクソゲーではないが、クソゲーが多い、というのがあたしの意見です。たま~に良作がある。RPGは別個に考えていけば、つまり、ゲームの継ぎ接ぎの部分で賭博性を感じさせるものも多い。例えば、戦闘だとか、戦略だとか、ルートどりだとか。だが、「XCOM」はその賭博性の部分がゲームのプロット(結果)に直接働きかけてしまっている。RPGはやり直しが効くが、プロットに至るまでいろんな試行錯誤が可能ですよね。「XCOM」の場合は、違うんですよ。個々別個の要素要素を汲み入れていくと、その個別のパーツが全体になっている。全体は部分の集合であり、部分は全体の構成要素であるべきなのに、全体=部分あるいは部分=全体という等式が成り立ってしまってるんよね。それが「XCOM」では“命中率”としてあらわされていて、究極言ってしまうと、最適解が見えている。それが命中の可否です。当たるか当たらないか?この部分繰り返せば、命中率がゲーム的100%でない限り、誰でもクリアが可能になってしまっている。「XCOM」はこの様相・傾向がとても強いゲームなんですよ。

「XCOM」のシステムはゲーム的矛盾である

そもそもの話「XCOM」は自由度が高く、非線形的なプレイが可能だ!っていうフレコミはなずなんよ。でもね、大方のゲーマは薄々気付いているんですよね。このゲーム、徹底的な線形的解があるゲームだ、と。繰り返すように本来は非線形的なモデルの中でシミュレーションしていくと何か発見がある・プロットがある、こういうゲームをゲームっていうはずなんよね。つまり賭博と同じで、未来に賭けるわけだよ。これが『ルートボックス騒動』ってやつでもある。賭博で未来に賭ける…見えない未来を見ようとする。「XCOM」は本来その理想道を行くゲームのはずなのに、そうはなってはいない。つまり線形なんです、このゲームはね。んだもんで、賭けてても、解が見えちゃってる。となると、これはゲームではないということになる。ゲームではないゲーム、つまりクソゲーになっている…とあたしは思ってます。もちろんこれは、このゲームの特徴でもある。クソゲーがホンマのクソゲーなのか?という議論はまた別にとっておきますが、「XCOM」および関連IPはほぼほぼクソゲーだと思います。本来あるべきゲームの形に合致してないからですよ。

ある日ある時ローグライトの世界線

もちろんこれはゲームだけに言えることでない。例えば、漫画だとかアニメだとか、そういう面もあるよね。最近になってゲーム業界でも、非線形的なACTを好むものが増えてきている。これは生成的な違いを生むAIによるものかもしれないし、そうした設計的配慮故であるかも知れない。ローグライトというブツがそうですよね。最適解を巡って冒険を繰り広げる。何回も何回もです。キャラ挙動の機敏があり、いくつもの試行錯誤が重要だとされる、ローグライトがゲームである理由・わけですよ。「XCOM」にはね、本質的にその周回性の重要さがないんだよね。最適解が定まりすぎていて、多くのプレイヤーはそこに気付いてて気付いていないふりをしているんです。本当に奇妙な事なんですよ、これは。ここまでローグライトが増えて過当競争になってても、それでもローグライトに魅せられたあたしは何がローグライトをローグライトとして足らしめているのか、ということに気を取られています。その結果、「XCOM」にはローグライト性がほとんどない、あるいは無きに等しく振舞っているということがわかったんですよ、直観的にね。果たしてそれはゲーム、つまり未来的賭博・未来への非線形性と言えるのか?いや言えないのではないか?これがあたしの意見の全てです。

「XCOM」ってサイコロ振ってないじゃんゲー

かつて偉大な物理学者アインシュタインは言いました…『神はサイコロを振らない』と。「XCOM」の場合は、サイコロをガチで振ってないんだよね。振ってるのは、むしろ典型的な大部分のローグライトや傑作と言われるACT性に優れた部分的なRPGなんですよ。ゲームは箱を開けてみないと味がわからないチョコレートボックスのようなものであるべきなんです。「XCOM」は味が分かっているチョコレートボックスなんだよね、実は。箱を開けてみなければ中身の味は分からん、これが本来ゲームのあるべき姿なのに、「XCOM」はそうはなっていない。味の分かり切ったゲームをゲームと言えるのか?ゲームがゲームたる所以とは何か?その提起すらできていないのではないか?と暗に感じたゲーマってあたしだけかしらね。

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<了>