「三里塚闘争」について我々が悲しむべきたったひとつのこと | ゲヲログ2.0

「三里塚闘争」について我々が悲しむべきたったひとつのこと



今から50年ほど前でしょうか。千葉県の新東京国際空港(成田空港)の建設を巡り、「空港闘争」という左派過激派と治安機関が対立した暴力事件がありました。いくつもの事件が起こり、血が流れ、死んだ警官もいました。半世紀ほどを経て千葉県民にですら忘れ去られつつあるこの事件を、今回は取り上げようと思います…。

空港建設のためには敷地が必要だったため、多くの地元の農民の暮らし親しんだ土地を、関連団体(よくわからんけど国とか自治体とか空港会社だろうと思います)が接収したんですね。これに農民や左派は激怒し反対運動を強力に推し進めた。完全には理解できないけど、地元の農家が先祖代々受け継いできた農地をとられたんですから怒るのは当然ですよね。反対活動の中でも一番苛烈で猛烈な記憶として現地民の心に残っている禍根が、「三里塚東峰十字路事件」です。

この事件では無実の警官が死んでいる。茂みの中から出てきた、過激派にめっちゃくちゃにゲバ棒でたたかれて死んでいった。歴戦の検視官ですら、検視の際泣くほど亡骸は悲惨だったそうです。『これが同じ人間のすることか?』と嘆き悲しんだ。死んだ警官は二階級特進したそうですね。寡婦年金もおそらく降りたでしょう。でもね、死んでから昇進して誰が喜ぶのだろうか?死んでから金もらって何に使うのか?常識で考えれば虚しさ以外残らんことは誰にでもわかりますよね。

市民は成田空港でデモ活動している過激派に詰め寄って、『なぜ無実の警官を殺したのか?』ということを問い詰めたらしいです。死んだ警官の中には愛する人との結婚を控えていたものもいた。中には、わが子の誕生を待ち望んでいたものもいたそうです。そういう方々が若くして亡くなり”立派な勲章”をもらった。英霊です。英雄ですよ。まさしく。

ひとつ分ぐらいだけ心が救われることもあります。人々の記憶が失われ始めたころ、ようやっとシャバに出てきた”札付きたち”が自らの過ちを認め、この十字路に出向いたそうです。謝罪のために。自らの罪滅ぼしのためにです。確かなのは、謝罪の態度を彼らが示したこと、中等教育を行う学校ではこのことを伝えることは禁忌とされていることですね。そして、”英霊”を悼むために悲しみに満ちた碑石が三里塚の十字路に、今この瞬間もそこにあること、です。

ドイツのミュンヘン空港は建設時、この”成田の事例”を徹底的に研究したそうです。その結果、ドイツではこうした血は流れなかった。成田で流れた血が、平和につながったとみることもできます。ですが失われた警官の命はもう戻っては来ません。それだけが、今日の成田近辺の経済的な繁栄の裏、忘れ去られつつある、悔やまれることなのです…。