う~ん、前々から言ってますが、KEYのゲームの作る方法論というかストーリーはありがちな気がいたします。で、「いわゆる葉鍵系なんてダメゲーばっかり」っていっているかたは実際多いように感じるもんですよね。どこがいいのかわからんとかぜんぜんダメゲーとか。ストーリーに抽象性を持ち込んでそれが受け入れられない場合こういうことが起こる。例えば、多重世界とかパラレルなワールド設定とかwお決まりというかご都合主義というかなんというか。だから葉鍵の批判されるべき点ってのは確かにあることにはある。だけれどもそれはリアリティとして教訓としてアニメや漫画ゲームを見れないか?って逆反論はあっていいと思う。今回はこの「CLANNADのリアリティ追及」を見ていこうと思う。
朋也はいうまでもなく渚という最愛の妻を亡くすわけですよね。それで憧れていた彼女への愛らしきものがなくなる、というか諦めがある意味でつく。がむしゃらに働いて、酒とタバコに金を費やす毎日…。これは悲しいよね。で、ここからストーリが急展開してきて、結局、渚との子供である汐をしっかりと育てることを決意する。それから話が巻き戻るわけだよ(原作では高校時代に戻って話を再現して不思議な力をもつ光の玉を集めるということになる) 。
でもこれって現実的にありえねーと思うし、あまつさえ、ご都合的にロボットと少女の世界につながっていてなぜかそれが希望をもたらすわけ。で、ここが受け入れられない方、抽象性の展開というありがちなKEYそのもののストーリに帰結していると批判する方は多い。実は、ファンながらいわずもがな俺もその通りです。ですが、ここで止まってはいけない。さらに評論できることがあります。それはCLANNADというゲーム世界のリアルの追及=鍵っ子に批判的な人の論理の主軸だと感じます。これをファンとしてもそういう同類の人にもおっていってほしいとさえ個人的には思う。空想物だからこそこれは重要です。空想にはリアルの追及はいらんという方もいると思うけど、このCLANNADは死別という意味合いを作る現状、実際のところリアルへの憧れがあってしかるべきだから。
離別ってのはリアリティがあるし、朋也がそういうことを克服しようとして、汐のことをしっかりと決意でもってして育てようと十年間(でいいんだっけ?)も耐えたわけですよ。これは本当にリアリティがある。むしろ我々が朋也に励まされて、明日もまた頑張ろうと思えるぐらいです。でここまでがいわゆるアフターのストーリだよね。ですが俺は結局CLANNADのこういうテキトーな側面は無視して、リアリティの追及という方法で見るべきだとは思うんです。まあ、俺がKEY作品の抽象性展開に批判的かそうでないかは見当違いとしてみても。 苦しみながらも働き続けたとか。あるいは先に書いたように汐の味方になって真実と向き合うこととか。ある種、CLANNADの世界も、物語を見ている我々のリアルとかぶるわけじゃないわけですか。
ですが、もっと大きいのがあります。それが人物の加齢による死ですね。結局このブログ書いてる俺もあらゆる思想・思索もまた同じ運命で、自分が死ねばそこで終わり。輪廻転生があるのかはわかりませんが、朋也も渚も人間。アニメやゲームの中の人間とは言えどもリアリティ追及すれば死別がある。結局のところ死別は若いころの記憶として残るものを超えて、朋也にも渚にもあるいはさらに汐の世代にもありえます。だからCLANNADは結局リアルを追求すれば「希望のない”ふつー”の物語」ともいえる。 いずれ朋也も渚も汐も子孫を残すか否かわかりませんが、結局希望が閉ざされて、意識がなくなって消えて、死別に陥る。愛する人と永遠の時間を残すわけではない。これは生と死の哲学、オルテガ・ジンメルに通じるような「生の哲学」ということではないでしょうか?渚がいずれ死すれば、朋也は結局のところそれを悲しむ。希望のない物語、もし希望が残ったとしても希望が若き頃に閉ざされただけの物語になってしまうのではないか?それが俺がCLANNADに感じる一貫したリアルな価値観なんだよね。
だからここに仏教哲学とか日本哲学とかが持ち込まれ場合、また違ったような要素になる。 だけれども一見CLANNADには仏教思想とか”滅びるからこそはかなく美しい”という日本の伝統的価値観はないし、必ずしもそうでなくても無きに等しい。だから結果的な評論はCLANNADが実は絶望と隣り合わせの現実主義なんでないかなぁ…。これはあまりに悲しすぎて、厳しいけどそれがアニメゲームにリアルを持ち込んだ要素だとは思うんだよね、そういう意味ではまさしく「CLANNADは人生」なんだよなぁ…。