『リジー』の歌 | ゲヲログ2.0

『リジー』の歌



リジー・ベラスケスは新生児早老症様の一種のようなものを患っている(皮脂がまったく蓄積されない、という症状がある)。2015年、彼女の類症はタンパク質を発現するFibrillin 1遺伝子、その変異がアスプロシン欠乏につながることが原因だと判明した。この病名として「マルファノイド早老症性リポジストロフィー症候群」という名がつけられた。病気・疾患のみならず症候群としてとらえられるもの、だという。

彼女の論旨は明確である。「自分を決めるのは自分だ」幼少期からずっと続いていたよう、リジーは、いたずら投稿の動画でいじめられた経験がある。その中で一番痛烈なものが次のようなものだったと彼女はこのプレゼンの中で述懐する。

「あなたは醜い。お願いだから、この世から消えるため、拳銃で自殺して…」

だが、彼女は動画のコメント欄がこのような文言であふれる、その事実に向き合った。もちろん、彼女は泣きに泣きくれたが、両親はこの子を神から授かった責任をしっかり受け止め、この娘に向かってこう励ましたという(彼女の家系はローマカトリック系の信徒らしい)。


あなたが他人と変わっているのは、”外見”だけ。
それ以外は何も変わらない立派な人間、一人の女性です。
ー臆することなく、顔を上げて笑いなさいー
ー恥じることなく、しっかりその顔で笑いなさいー


リジーが呈するものは何個かあると思う。
それは彼女の前半生後天的なものに大別できるだろう。

まず、彼女の両親は羊水のない腹の環境で育った彼女をしっかりと見とるという責任感をもった立派な人間だった、ということ。これが彼女の前半生の大部分に影響していることである。歩くことも考えることもできないのは間違いないと医師が判断する中、リジーの両親はしっかりと、彼女の親になることを決断する…この決断の背景には「中絶は殺人である」という、アメリカの保守的なキリスト教の価値観が反映されていると思われる。

我々は果たしてどこから生命の萌芽を得るのだろうか?受精卵の時に生命が発達しているか、もしくはどの幼胎児の段階で生命が育まれたのだろうか?このように”中絶に準ずる行為”には、どこからが悪でどこまでが権利なのか?といった倫理的な価値観と客観的な医学的事実の問題が呈されるわけだ。これは、彼女が胎児として芽吹く前から、問題提起されているものなんである。中絶”らしきもの”といったものは、いったいどこからが真実でありうるだろうか?

そして、リジーはプレゼンテーションの中でこのように言う…それが『自分の運命は自分で開拓するものであり、他人のシャトルバスに乗ることではない』ということである。すなわち、”自分の信じるものが自分の力になる”というのである。これが彼女が生まれ、成長した、後天的なものの主旨である。見かけが醜くても、その内面とは関係がないこと、人を尊敬することとはどういうことか、人の価値とはどこで決まるのか?お金か?美しさなのか?年齢だろうか?はたまた病気・障害の有無だろうか?その一貫性のなかで自分で決める運命というものが重要なのだ、と彼女は強く指摘する。

美容整形で人の見分けが決まり、お金で幸福を買える時代に生きる強い女性…

彼女の人生に学ぶべき点はやはり多い。痛烈にまで我々のようなふつーの見かけの人間に貫けられるものが確かにあるよう感じた。彼女はこのように世の中に問う。

『あなたは、あなたという車の運転手』
ーあなたの運命はあなたが決めるものー
それは他人に運転される車で、目的地に行くようなものではないのです…