「Stellar Blade」を巡るポリコレvs反ポリコレの構図が非生産的であるたった一つの理由 | ゲヲログ2.0

「Stellar Blade」を巡るポリコレvs反ポリコレの構図が非生産的であるたった一つの理由



ゲームはゲーム(楽しけりゃ良い)

ぶっちゃけ、ゲームとしてはどうでもいいと思う。というか、楽しめる人が楽しめればいいだけなので…。今回、特に面白いのと思うのは、リアルの投影がされている、という共通点が、他のゲームと比較して頑としてあることだろう。じゃあそこが問題なんかっていうとそうでもない。本質的な問題は何か?というとまさに本質そのものなんである。ポリコレが言う・提起する問題は実存ではないのだ。空想・表現・表装なのだ。

実存は共通項であるが故”言い訳”である

例えば、YouTuber:キャベツが言うように、「BIOHAZARD RE:4」でもアシュリーにはフェイストラックされたオランダ人のモデルがいる。「Stellar Blade」にもモデルとなる韓国人のモデルがいることと同じように、だ。つまり、実在するトラックモデルがいるかどうかは、ポリコレの観点から言えば、判断基準になっていないわけだ。実存的事実ではなく、そこから発進した”表現”に嫌悪感を覚えるか否かという点に論点は集約されているわけだね。実存はあっていい。それはトラックされる人間そのものである。もっと言えば、トラックされる美形のモデルさんである。

ポリコレは表現の問題に徹し反ポリコレは実存の問題に徹する

その実存は、実存すること自体はとてつもなく面白いのだが、それ以上の問題として提起がされているものがある。それがポリコレの言うことなのだ。そこ(実存)から、ゲームというものに逍遥(アウフヘーベン)され、表現が加わると、嫌悪感を感じるそこ(実存)以上(表現)があるか否かいう点を、さらに評論する側の人間が”試行錯誤する”という点が肝要なんだね。実存は実存するだけであって、それこそサルトル的な「実存は本質に先立つ」だけである。だが、キャベツが言うように、この実存自体を”言い訳”にするのはそれこそ間違っているように思う。理由は簡単、”実存は共通しているが、本質は相違あるため”である。

本質はポリコレが呈する表現の問題である

なぜかというと、実存はあるだけであってそこに意味(本質)はない。意味よりも実存自体が先立っているだけである。つまり実存は無実なのだ。実存は本質的意味とは関係がない。だって、先だって存在するだけなんだもん。そこに表現が加わり、嫌悪感が加わると、民意の中から、反意が出るのだ。その反意を示すレビューの主がポリコレである。もちろん、ポリコレはあっていい。多様性があるからいいんだが、経営や社の方針にまで過度に影響を及ぼすのはいただけないと思う。というのはキャベツの主張=実存するモデルがいる!という意味においてではない。「表現の自由」という意味においてである。

ボールはポリコレ側にあるがそれが根詰まりしている

我々はこの権利…表現する自由権を持っている。それが強力に公共を害しない限り自由である(法律で定められてる)。または、他の一般的なルールに沿っている限りセーフである。そういう意味では、当然ポリコレ側にも自由がある。それは、これは現代的な価値観から沿ってあってはいけないものである、という反意の意見だろうね。この、あってはいけない、という主張もまた「表現の自由」の範囲である。さらに、反意をもってポリコレ批判するのも自由である。それも反ポリコレの「表現の自由」の範疇だからだ。だが、ポリコレはそこから飛び立って、反意の反意(再反論)が出来ていないように思う。つまり、『キャラが性的な意味でキモイんだよ☆』という意見以上のものをポリコレは取り出せないのだ。

誰でもわかる論理的な間違い

論理的に間違っているということはよくわかったと思う。ここにポリコレを嫌う人の意見が頑としてあって、その反意が一致団結してポリコレ排除運動につながっている意味合いもわかる。ただし、徹底して他者の意見を嫌うだけってのもいただけない。反ポリコレは論理の力でポリコレを屈服させることが出来ていいし、あるいはポリコレ側が反意の反意(再反論)をしっかり構築することが求められてる。ポリコレvs反ポリコレは事実の問題ではないことは少なくともよくわかってほしい。モデルがいるか否かと、ポリコレクティーが存在するか否かということは関係がない。なぜかっていうと、「実存は本質に先立つ」から。あくまで「表現の自由」の問題である。そして解釈の問題である。そこから旅立たない限り、実存派は”言い訳”だけに徹してしまう。それはポリコレの思うつぼ(というか「キモイ☆」の論理のコアになってるだけ)であり、ポリコレの考えている非実存系の本質である。だからこそ、ここには思い入れない分水嶺がある。

周回軌道に飛び立つシャトルはジェット燃料を切り離さなければならない

実存とそこから思い描かれる自由表現とを混同してはいけない。そうすれば、ポリコレvs反ポリコレは単なる口喧嘩に徹してしまい、より良い表現とかより良いゲームの在り方とか…ゲーム以外でもだけど…そこから旅立てない。シャトル本体は、燃料ケースを切り離す必要があるんだ。ジェット燃料をもう必要としないロケットの周回軌道に入るために、だ。思うに、シャトルはまだ燃料ケースを切り離せていない。そこにポリコレvs反ポリコレをエンターテインメントだけにしている理由があると思う。たぶんそれは何も生み出さないし、現に生み出せていない。この構図は現状、ほぼほぼ完全な反生産的な問題なのだ。