『Frostpunk 2』は「資源の人類史」を辿る | ゲヲログ2.0

『Frostpunk 2』は「資源の人類史」を辿る



人類の破滅というのはしばしばデジタルゲームでもテーマにされやすい題材だ。期待されるゲーム『Frostpunk 2』が辿るのは、そうしたあれかこれかというキルケゴール的選択を題材にした人類史に他ならない。思えば、我々は政治的な選択上、そもそも切り落とす部分と救済する部分を暗に日頃からセレクトしている。どこか選択をすればどこからか切り落とす部分が出てきて当たり前で、これがアメとムチという政治政策の真意だ。切り落とす部分がムチ・救済する部分がアメ。

『Frostpunk 2』はそうした政治的選択に失敗した指導者を象徴的テーマにしている。資源が限られた人間の未来、そこであなたがリーダーになり仮に失政を敷けば、臣民の命と等しく政治的リーダー、つまりあなたの命もない。前述するように現在の政治においてもこれは同じことだ。誰かが失政し、そのために臣民・国民に過度な生命の負担を強いれば、そのリーダーの政治的運命はそこで屈する形で潰えるだろう。『Frostpunk 2』はその題材に資源量の問題、つまり環境問題を見たゲームだ。その仮想上の世界においても無限の資源などはない。そして、パンクの世界のみならず、現実の世界も同じ論理で回っている。

我々はあたかも資源を無限かのように扱っている。蛇口をひねればいつでも水が出てくると我々は意識せず考えているがそうではない。ひねって出る水の量を増やすことはできても、ひねって出る水の量自体を増幅しているわけではない。つまり水量は無限ではなく、あくまで、出す水の量を増やしているにすぎない。出す水の量と総水量とは別の問題であり、出す水の量は増やすことができても、総水量は確実に減っていく。つまり資源量とは有限なのだ。

水甕の水を飲んでいく。飲めばいずれのどが渇く。のどが渇くともっと水を飲みたくなる。いつの間にかそうしてみなで水を飲んでいる間に水は消えていく。いうまでもなく、水甕の中にある水は有限である。養老孟子はカネの問題は資源量に依存するべきではないか?というアイデアをこれをもってして提起している。

なぜゲーム『Frostpunk』シリーズは魅力的なのだろうか?それはデジタルの世界で「資源の人類史」を辿ることができるからだ。そのシミュレーションには誰もが参加できる。だが、皮肉にも現実世界では我々の賭け事は数回しかチャンスがなく、しかもそのルーレットに数回失敗すると、失敗したその分の替えは効かない。我々はそうした賭け事に意識せずして参加している、誰もがギャンブラーな存在なのだ。パンクの世界が魅力的なのは、その賭け事の可視性を増やした点にこそあるのだろう。