【連載:クマでも読めるブックレビュー】「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術~北出 | ゲヲログ2.0

【連載:クマでも読めるブックレビュー】「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術~北出



※書影:Amazonより

評論ではなく作品論である

作品論としては面白いんだけど、深みがない。これこれこういう作品があるんですよ⇒この背景となる論理はこうですよ⇒だからこう思います⇒次の作品はこうなんですよ⇒ループっていう話の流れが定型的に決まっていて、評論としての深みがないです。個々の作品の感想を書いていてその品質自体は悪くないと思います。ですが、作品群のまとまりに関して、その個々の点々をつなぐように無理やりカーブ近似線を非線形的に書いているだけで、これを評論、といえるのか?

作品論=消費論である

たしかに、(あたしが言うのは皮肉ですがw)ゲヲログ2.0がそうしてきたよう、ひとつひとつの作品の評論にはなっている。が、一体何が言いたいのか?一体何をどう定義したいのかがよくわからない。ここがこの本の貫徹している悪いところだと思う。おそらくそのキーワードがセカイ系なのだ!ということを言いたいらしいが、そもそもセカイ系の定義なんか提示されても単なる消費論に埋没しているものだからあまり意味がない気がした。

博識さは感じるがそれのみ

そうしていくうちに主題が音楽とかビジュアルノベルゲームとかに遷移していって、主題として何が言いたいのかがよくわからない。同人のレベルだったらこれでいいけど、単著としてヒットするような本ではないです。マルチメディアとかの概念と結び付けたいのであれば、もっと何かしらの工夫や論のうちたて方に革命的に優れている点を見つけなければならないよね。発想レべルだとマクルーハンみたいな論に収束しちゃうし。

論が抽象的すぎる

で、あと表現が抽象的すぎる。本質的に難解なことを抽象的に説明しているのであればいいんだけど、ソーカルアフェアーみたいなあいまいな難解さがあるだけで…というよりかは、話の抽象性をある程度上げれば良い本になる、と思ってしまっているような印象を持つ。例えば、レイヤーとかエーテルとかイーサネットとかHTMLとかウェブ技術とかにけっこう詳しいんだろうけど、その博識さだけでオセオセの論をうちたてていて、論としてやはり深さ、というか実証的に論を立てる、ということが出来ていないです。

定性的な論に終始している

目標とするところが、昔の宮台社会学みたいなのか?定性的な表現だけで論がうちたてられてて、今衝突している何らかの問題に対する回避のための工夫・定量的にものごとを立証しようとする試みが、まったく感じられない。というか皆無。故にちょっと何を言いたかったのかがわからない、というような本になってます。はっきり言って全体的にそうです。同人の書ではないので、少なくとももうちょっと何かしらの工夫できなかったものか?

少なくとも基礎理論の本でもない

例えば、このルートで行くのであれば、東本として有名なデータベース消費論に対するアンチテーゼを立ててみたり(斎藤環のように)、あるいは時系列分析やTMを駆使してなにか論の立証候補をいくつか立ててみる、ということでも良かったはずですが、印象評論の域を出ない、過去の時代の評論の手法を駆使することに終始してます。これで説得力が生じるのか?確かに提起としては十分に面白い内容ですが、ものごとが提起されて終わっているので、ああそうですか、のレベルで終始してしまってます。

買う価値があるか?

そういう意味であるあるの同人本のレベルであって、2000数円だして買うまでのレべチな本ではないです。例えば、リビルドとか言っていますけど、そういう意味で何か論を立てたいんであれば、それこそ立証性のある説明があってしかるべきだし、かといって印象系の評論、としてグンバツに優れている面があるか?というと、本書にはまったくない。じっくり読めば、あなたはそう思っているのね、と感心して読めるんでしょうけど、そこまでです。

結論

良くも悪くもブログ・ゲヲログのように作品消費論に終始してテーマが選択されている、というのが問題だと思った。でも面白い本ではある、単純に面白い評論ではある。だからこそ、ですが、よりもったいない面が際立ってます。