前半部分は、哲学や家族人類学のようなジャンル、その分はあたしの専門外なんで何とも言いようがない。でもおそらく、すごく個性が出てて着眼点は良いんだろう。その分において、あたしなどが詳細を追っていけるものではないので、純粋に著者の博識さに驚かされた。ただ、AIの論に移っていく後半部分には、『アレ?これで正しいのか?』というデータ解釈手法のとらえ方に出会った。だので、そこを指摘しておく。
まず、ビッグデータが個性とか外れ値を除外してしまうという指摘はあまりに単純すぎるし古典的な思想に依っていると思う。例えば、新しい手法がないのだろうか?という提起があることを無視している。この部分に関してはアズマンの知識不足が如実に表れてしまっているよね。ぶっちゃけそんな問題はいくらでも言われてきたし、AIの典型的な批判のあてはめ方にびっちりと”籠っている”。例えば、統計解釈においては、p値の問題が古典的にある。
これは、帰無仮説を棄却できる優位水準がらみの指標のことだが、近年のアメリカ医学会(ネット上で現時点で確認できるものとして有名なのはASAの声明だけど、医学会でも同じことは言われてきたはず)では、p-hackingという、p値を乱用した論文に対して非常に批判的な意見があることを東は知らないと思われる。例えば、特定の観測データから要らないと思われるデータを外れ値に指定して、難癖をつける。すると理想的なp値が算出される、という論理はよくよく統計上の問題として知られている。医学や心理学の論文ではそういう傾向が強くて、これ(p値)を意図的に操作する方法が批判されているんだ。
よって、ベイズ統計学や決定理論(ゲーム理論)や多変量解析のほうをツールとして単純に使用するほうが良い、とする論理は未だに強い。このあたりのフォローアップが本書「訂正可能性の哲学」には全くない。全くないんだ。見当たらない。AIを語るんであれば、これぐらいのAIの前提知識はあってこそなんだけどそこがない。この問題提起はもう十年以上前から指摘されている古典的な統計的批判であり、2023年の著書としてはあまりに後れを取ってい過ぎている。いわゆる「車輪の再発明」なんだよね。
端的に後半部で東先生が言うには、『人工知能的な民主主義は外れ値や個性を除外してしまうが故の危険性がある』ということだろうと思うんだけど、それはケースバイケースであり、またその意見が妥当だとしても古典統計的な問題でもあるし、新しい手法を開拓しよう!という学識者も多くいる。そんなことを今更言われても遅いッ!東先生の言っていることは実に正しいんだけど、それを今更言われてどーする?っていう論になってて、単純に”論が回るのが遅い”。
東センセは人文科学系の方なので、無理解、それは当然のことなんだけど、それこそ訂正すべき点・訂正可能性のある点ではないだろうか?とあたしは思う。んで、東さんが言っているようにそういう問題に対して統計学やAIの研究分野で新しい手法がないのか?というとあるんだよね。これはゲヲログでもfameやあたしが口を酸っぱくして言い続けているんだけど、例えば、松尾研究室では「世界モデル」の研究が進んでるし、質の高い小さめのデータセットを学習器に突っ込んだらどうなるのか?という提起もある。
「世界モデル」では単に観測データを増やすだけではなく、学習する側=AIが積極的に外部のデータを観測・参照し学習に組み入れることで何らかのAI的なブレイクスルーができないか?ということを提起しているし(これについてはゲヲログでも記事にしてある)、小さめでも強い個性を持つ外れ値的な専門のAI解析器を作ろうという計画はゲヲログでもある(このアイデアについてもゲヲログ以外で先達となる書籍がある)。つまるところ、東先生にはAI関連の初歩的な学習について回る知識がないんだと思う。
重ねて言うけど、本書の人文科学的な学識には驚かされるが、微妙にとってつけたようなAIの知識が露出してしまっている…ここがあまりに杜撰だと思った。fameもおんなじ意見を持ったって言ってたし、おそらくレビューで多くの☆をつけてしまっている人々もAIに対しては専門的な知識のない人々なんだろうなと思う。逆に☆の少ないかたはこの点に大いに矛盾を感じて当然だと思う。でもアマゾンレビューを見る限りでは、あまりに、あまりに、星を多くつけているかたが大勢いる。これこそ「訂正可能性のある哲学」そのものではないだろうか?