ぶっちゃけ、所謂「車輪の際発明」なのかもしれないし、他のかたがこう呼んでいるかどうかはわからん…アニメ「推しの子」が不謹慎かもしれない最大の理由のうちのひとつは「アニメ・リアリティー」にあると思う。これは一言で言えば、リアルつまり”現実の要素をアニメの中に押し込むことで生まれる臨場感のこと”だ。これはおそらく古典的な手法で、これまでずっと昔から、いくつもの作品で、いくつものシーンの中で作られてきたものだろう。もう一度言う、「アニメ・リアリティー」とは、”現実の要素をアニメ(などの作品)の中で再現すること”だ。
例えば、「推しの子」第10話の中には、トップYouTuber:DaiGoの名が伏せられる形で出ている。これもまた、「アニメ・リアリティー」の手法のうちの一つだろう。現実感との距離を上手く作品内で取ることで、実存的価値観を視聴者に訴えかける。そして、ユーモアでもってして、『ああ!あれのことか』と思わせるニュアンスでこの技術が使われている,,,(のだろうと思われる)。
DaiGoは放送禁止用語に認定されたそうです。誇らしい。#推しの子 #アニメ第10話
— メンタリストDaiGo (@Mentalist_DaiGo) June 21, 2023
つまり、現実と乖離している場=アニメーションの中で、現実感を感じさせることで、笑いを取るのだ。ここでは、わかりやすく表現するために、その乖離のことを「バンドギャップ」(”禁止帯”の意)と呼ぶことにする。
関西大学教授の木村(故人)もいうように、【笑いは意識が大きなものから小さなものへ不意に移される時、つまり「ズレ下がり(descending incongruity)」が存在する時に生じる】と、かってハーバート・スペンサーは唱えた。ここで言う大きなものとはアニメーションの物語そのものである。そしてバンドギャップとなった先にあるものがリアリズムだととらえることができないだろうか。双方は相対するようで、コネクトする関係にある。それが、”想像と現実”である。そして、アニメ―ションの世界からリアルに引き戻され、そのバンドギャップから「ズレ下がり」が生じるときに笑いが生まれるのだ。スペンサーのホンマの理論とは違っていることを指し示しているかもしれない。だが、似ている要素であることには間違いない。
この手法は先に書いたように、あまたの表現手法でよく垣間見られる方法だ。「ズレ下がり」の理論の内実は言うなれば、多くの場合”価値観の差”である。想像上の形から現実に引き戻されるギャップに笑いが生じているのだ。そして多くの場合、他者と関係性を持つうえではこの差がある。現実の言葉や概念を持ち出すことで臨場感を感じさせるわけだ。手法を開拓していけば、笑いだけではなく、シリアスさも出せる。スペンサーは笑いについて上述の言葉を残したが、これは”差別”だとか、”現実感”だとか、あるいは、”理不尽さ”や、”不幸さ”などの価値観にリアルに追及が及ぶ現象にもなるだろう。スペンサーは笑いについてズレ下がりの理論を残したが、それは発展的に解釈され、多くの倫理学者や哲学者の話のタネになっているのではないか,,,そういう発想である。
「推しの子」だけではないことは前記事で十分述べた。どの作品にもこの手のバンドギャップの理論は使われていて、アニメ技術について言えば、多くの「アニメ・リアリティー」が使われ技術が培われてきたのだ。アニメ内で表現される情報端末のUI(ユーザ・インタフェース)も該当する、それこそ木村が言うようにドラえもん的な近未来の技術にも該当するものがあるだろう。そこかしこの広い意味での笑いにあって、拡張された「ズレ下がり」にどこか突っかかるものがあったとする、そこに別の感傷を抱く人もいるだろう。ましてや、それがネタ的に論じられることがあると、不愉快な気分になるかもしれない。だが、一つ言えることがあるとすれば、【スペンサーの理論は間違いなく笑い単一についてのみ言えたものではない】ということだ。これだけはスペンサーを発展的に、モダンな環境で解釈すれば、断言できることだろう。
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