アニメ「推しの子」は不謹慎なのか? | ゲヲログ2.0

アニメ「推しの子」は不謹慎なのか?



あたしも見ている、今季から放映が始まった人気アニメ「推しの子」(漫画原作有)で、アニメ内で表現された恋愛リアリティショーの自殺未遂事件を巡り、実在した恋愛リアリティショーにまつわる自殺事件となぞらえ、当アニメが不謹慎である、という見方がある。
【はたしてこれは本当なのだろうか?】

結論:ぶっちゃけて言えば、『白黒はつけられない問題』だろう。


この問題はムズカシイです。自殺されたかたの家族・当事者にしてみれば、そうとらえられても仕方がない面があるでしょう。ですが、こういった事件事例の似ている面、という点は社会の中でも散々散見されるものであって、これだけが特に該当する、とまでは言えないとあたしは思います。例えば、アニメ「名探偵コナン」(こっちは青山先生の漫画原作有)で作品内での架空の事件事故を実際に起きた事件事故となぞらえて、批判する人がいてもそれはおかしくはなく、ままあっていいことだと思うのです。当事者としては、いかに客観に徹しようとしてもそこには主観が介在してくるわけで、連想を想起させてしまう…という理論は心理学にもありますね。これはこれらのアニメーションだけには限りません。

例えば、午後ドラマにも人気ドラマにだって、そういうものがありますし、映画に至っては、アクション映画のみならず、性表現なども満載だ、というのが現実です。池田信夫が言うような差別の問題とかなり似ているんですよね。ゴールデンタイムにミステリーを取り扱っているアニメ「名探偵コナン」だけじゃないんですよ。「名探偵ポワロ」「刑事コロンボ」に始まり、ミステリーものってのは全部そうなんです。似ている事件や事故を題材にとって書かれた作品も多いですし、現実に即しているからこそ、リアリティーのある創作ができる、という面も否定はできません。じゃあこれがミステリーだけに留まるのか?というと、またそうでもないですね。アクション映画だって、SF映画でだって、なんだって人は作品内で死にますから。また別の角度からも解釈はできるはずです。

例えば、東野圭吾の名作小説に「時生」というものがあります。これは、作品が東名高速道路の火災事故を題材にとったものである、という見方が十分できるものです。ただ、作品自体はこの実在した事故を否定的には(たとえ、著者の東野がそれを前提としていた、と仮定しても…)書いていません。これはきっぱり言えることです。ネタバレですが…(※ネタバレ部白抜表記:文字反転で見れます)時生という主人公の息子がタイムスリップして過去の主人公の妻を助けることになっているですよね。時生の体も現世の変わり身なので、けっして無駄に死しているとか、そういう面もない。つまり、実在した事故を(想定していた、として)希望的に書いてるんです。ですが、東名高速道路の死亡火災事故では、実際に死者が出ています。では、東野の同小説をもってしてこの小説を不謹慎だ、といえるのか?というとそういう見方もできるし、できないともいえるでしょう。事故の被害者は、決して蘇ることのない親族の生命を奪われたわけであり、これをどうにかできなかったのか、と悔やみ誰かの責任も問いたいという願いや願望があってもおかしくはないですよね。

創作活動においては、こういった見方は十分多く出来るものです。人間の想起物が現実と界面的に接して、新しい価値観を生んだり、感動を生むこともあるでしょう。その作品内でどのように描き切ったか、という問題でもあるでしょう。また、それが営利的な映像作品なのか?はたまた、そうではないのか?単純に小説として表現されたものか?そうしたメディアの多様な位置づけを探り多段的に解釈しないと問題の本質は見えてきません。だけれども、これほど複雑な心境をあたかも神のごとく客観視しろ、と言われても一朝一夕に解決できるものではないことは間違いないことです。また、作品だけの問題でもないでしょう。なぜかというと作品が実存し、その解釈を行う人々の三者三葉の立場によって違ってくる問題でもあるからです。実存・そして解釈という二段階に分かれている問題だ、というのがあたしの見方ですが、その内在する多段的な問題でもある。つまり、この問題は非常に複雑に分岐しており、実存しているだけでそこにはいくつものメメントが盛り込まれており、それを解釈する、という立場上の人間の在り方を巡っての客観主観論でもあるわけですから。

原作品がどういった立場で公表され、どういった評価を得たか?また、評価者としては、当事者・家族・親族・視聴者・制作者・原作者…どういった立場の人がそれを行うたのか?という問題だと、問題の根幹の部分は集約できます。ですが、ここまでくると、もう客観的どころか主観的な立場の多様性に枚挙にいとまがありませんから、誤解も生むし、曲解も生まれて当然だと思います。ですから、「推しの子」が不謹慎である、という見方も(それこそ誤解を恐れず言えば)十分できます。逆に、『そうではないでしょう?』という反論も”作品の比較”という立場から(例えば)できるでしょう。そして、そこには往々にして主観が介在してしまい、人々の混乱をより多く招くだけであるからして、非生産的な話である、という事の真義の問題とは真逆にある評論的反論も十分成立するものと思われるわけです。


結論をもう一度言いましょう。

『この問題は白黒がはっきりするほどその不謹慎さを絶対的客観で論じれるものではない』

これだけは明らかなことだと…あたしは、思っています。