評論家:藤田直哉~ゲーム系新著を巡り自らのゲーム観を語る | ゲヲログ2.0

評論家:藤田直哉~ゲーム系新著を巡り自らのゲーム観を語る



ゲームと社会情勢は関係している? 『ゲームが教える世界の論点』著者・藤田直哉氏に聞く|Real Sound|リアルサウンド テック

結木千尋の取材により、ウェブメディアReal Soundの記事として、評論家の藤田直哉が自らのゲーム観を語っている。この取材は、藤田の新著「ゲームが教える世界の論点」刊行を機に行われたもので、けっこう斬新な意見が述べられていると思う。他方、すべてにわたり藤田の論が妥当だとはあたしは思わない。それを振り返るため当該記事の要点をまとめてみよう。

・ゲームは他の評論対象と異なり、評論の対象・ジャンルとして軽んじられている.

・売上として巨大な市場規模を誇るIPは多くあるのにその評論のスケールは小さい.

・ノベルゲームは評論の対象となっても3Dゲームが評論の対象になることは少ない.

・ゲームは個別の著作でなく集団の著作であることがその理由のうちの一つである.

・これまで確立された評論の枠に収まりきらないという理由があるものと思われる.

・ゲームも映画などの評論対象メディアと同じであり”社会情勢の投影”が存在する.

・明確なプロット、つまり物語性がなくともそれはゲームの持つ社会的意義である.

・ゲームの持つ社会的意義や個性は客観的な論を際立たせる役割を担うことが可能.

大体インタビューの中身はこんなもんで、ぶっちゃけ二ページ目と三ページ目には尻つぼみになっていて、結論が書かれていない。「RDR2」に見るポリコレの役割だとか、ポピュリズムに対する反逆性だとか(ともに二ページ目)、三ページ目に至ってはゲームの展望みたいな典型的なゲーム論の一端にしかなっていなくて、内容は薄い。だからこの論、一ページ目に集約して目を見張る必要があるとあたしは感じた。

ゲーム評論が軽んじられている、という側面に対してはけっこういい線を言っていると思うが、あまりに常識的すぎる。そしてゲーム市場規模はでかいのに評論されにくいのはおかしいというのも昔から言われていることで、斬新さがあるものではない。例えば、TGNなんぞは『ゲームの市場規模は漫画を優に超えるのに、ゲーム版コミケのようなイベントはない.だからゲームのコミケを作りたい!』という主張する集団がやってた、東京圏での大規模なLANパーティだが、結局頓挫してしまってて、継続されるイベントにすらなっていない。

むしろ、ゲームを巡っては内輪もめ(誤解を招く言い方をあえてすれば)のようなRTA大会やe-Sports大会が多くて、ゲームの仲間うちその内側からしかコミュニケーションが進展しておらず、評論につながるものまでは発信されていない現状があると思う。これらの集合・大会は強い社会性があるし、社会的なポテンシャルは秘めているものの、”評論される”というジャンルからは遠ざかっているようにあたしには思える。これがネガティブにならざるを得ない理由になってる。ゲームはこの期に及んで専門性の高い分野になっている、という批判はあっていいと思う。

ノベルゲームの評論はノベル形式のものが物語性を優に持つからこそ、また、作家性があるからこそ、当然その対象となってきた現実があると思う。この辺りはとても同感できる点。でもね、ゲームは娯楽要素が高かったり、ある種他人に対するアクションものが強い要素を持つから、そうしたものが敬遠される、という方針だという古典的な、ゲームに対する偏見の見方のほうが強いと思うんだよね。だから、藤田の意見は斬新さはあれども、通常のメインルートどころは行っていないところだと思うんだ。

ゲームは追体験であって、そこに明確なプロットがなくても社会性があるというのも微妙なところ。じゃあ、無意識の問題はどうなるのか?とかさらに深いところまでは論じられていない。結局のところ、ゲームが俗物である、という偏見を軒並み取っ払うほどすごい評論はできていないと、(この新著は読んでないけど)あたしは推測してるんだよな。

たぶん、相当転変的な観点からゲームを述べないと、もうこの筋の評論はできなくなっていく一方だと思う。むしろゲームはT型とよりかはI型に近くて、専門性がより高くなっていくと思う。例えば、シチュエーションが限られたゲーム、だとか、独創的なゲーム、これまで見たことのないようなゲーム、新しいジャンルや新しい体験、そうしたものをコア層がより強力に共有するジャンルになってきていると思う。市場規模はでかくなっても、そこから社会的な正当な評論に、即つながっていくものだ、とは考えにくいよね。