〈VTuber前世詮索否定派〉が言うように『”前世”の詮索』はタブーなのか? | ゲヲログ2.0

〈VTuber前世詮索否定派〉が言うように『”前世”の詮索』はタブーなのか?



記事の要約:基本的に『”前世”の詮索』はタブーとすることはできない。推しについてよく知りたいという意欲は否定しようがない。だが、その定義や指し示す範囲や対象に対する性質にもよる。タブー視できないと同様、一概にすべてが許容できるとも言い難い。プラグマティックかつ(ちょっと行っても)リバタリアニズムみたいなスタンスを示すことが現段階の言論の世界における限界である。

あたしは流行に疎く世の中が二度三度回ってから遅れて流行に乗ることが多いので、これは最近知ったことなんだが、VTuberの”中の人”のことを”前世”というらしい。正確に言うと、VTuberデビューに至るまでの過去活動の部分の身分のことを”前世”というらしい。よくVTuberファンの中でこの”中の人”=”前世”(正確ではないがわかりやすさのため便宜的にこうしておく)に対する詮索は、卑劣だとか姑息だとかそういう問題で議論されることが多いらしい。果たしてこの〈VTuber前世詮索否定派〉の論理は正しいのか?それとも偽なのだろうか?

まず、VTuberファンが”中の人”を気にするのはたしかにわかることではある。VTuberといえども、中身は人間であって、アーティストとして仮面をかぶっているというのは事実だと思う。つか事実でしょう。人間が中身にあってこそ、VTuberは仮想上のアーティスト(表現者)になっている。当たり前のことだ。だから、そのアーティストのことをよく知ってこそ、音楽性や性格も深く理解できるのはごく自然なことだ。例えば、尾崎豊のことを知りたい学生で卒論のテーマにこれを選んだとする。尾崎のことをよくよく調べて卒論を書くだろう。別にアーティストに限ったことではない。手塚治虫の漫画研究で卒論を書くのであれば、彼の人生の一時ソースにあたることは当然調査という名目で必要なことだ。

推すVTuberについて詳しくなりたいのであれば、総合的にその推しVTuberをよく調べる必要がある、という論理はある。卒論と推し活をする本来あるべき理想的なファン活動との間には大きい溝があるのでは?と思うかもしれないが、特定のVTuberその活動の詳細を知りたい、もっとそのVTuberの魅力を知りたい、という動機においては同じだ。真実を知って、もっともっと彼らの作るコンテンツ・音楽なり小説なり作詞なり作曲なり絵なり動画なり…それらを楽しみたいという意欲が湧くのは当然のことではあるよね。そうすれば、同じファン同士で仲良くなって、もっと楽しい時間をVTuberのファンとして過ごせるかもしれない。アーティストのことを知りたい…動機の根幹は決して卑劣で姑息だとは思えない。純粋にVTuberの表現者としての側面を知りたい、というのであればごく自然なことだ。

この説明が表す本質は、そもそもあたしたち普通のネットユーザだって同じではないか?という筋の意見のことでもある。つまりそれが一般的ごく普通な、ハンドルネーム、ということである。それ以前に、本質的な人生においてだってそういうことってままある。過去の自分・過去の経歴、きれいさっぱりにすべてをさらけ出せるわけじゃない。誰もが人生において隠したいことがあって、人生に影響を及ぼしたひととしてのミスがかつてあったはずだ。それを追求しようとする論者の論もわかる。恥ずかしい過去、隠したい過去、だれにだってあって、それに対して一定の秘匿権もあるし、一定の責任義務ももちろん現実としてある。問題は”中の人”=”前世”にまつわることだけではない。誰にだって共通することだ。

一方で何があってもいいだとか、明白な行き過ぎは駄目だと思う。秘匿したい部分をことさら暴露したり、本来背負うべき責任以上のことを追求したりすることは、VTuberにいやな思いをさせることになる。それはもうファンではない。探なる暴露者であり、嫌がらせ以外の何物でもない。ただ、この議論の線引きは相当難しい。どこを境界とするか、ということは非常に難しいんだ。例えば、まとめサイトが行き過ぎな情報暴露をするだとか、Xポストで個人的に攻撃的な言動をとるだとか…そのあたりでの線引きが現実的だろう。…と単に言っても、情報提供の方法ややり方による問題でもある。だから、適切な範囲で、という曖昧過ぎる議論に終始しちゃう。ここが難しいところである。ここには、本来の人間と人間・あるいはVTuberゆえの人間と人間の仮想人格という複雑な関係性がその難しさに拍車をかけているといえる。

決してこの課題をタブーにはできない。基本的には〈VTuber前世詮索否定派〉が言うようにタブーとすることはできない。だが、その周辺にある条件や定義の問題でもあるので(人によってうって変る価値観の中でそうであるという意において)、一概にすべてが許容されるとはいいがたい。こういったプラグマティックな結論、あるいはちょっと行くとリバタリアニズムみたいなスタンスだけが、今のところひとまず出せうる結論じゃあないかな。