続:ゲームの進化は止まるか? | ゲヲログ2.0

続:ゲームの進化は止まるか?



綾野純がゲヲログ2.0で言うように、ゲームの進化が止まるかどうかがシュンペーター的な論理に当てはまるかどうかは俺にはわからん。『逆説』の通り、レトリックで新規参入を認めればイノベーションが起こりやすくなるとも思えん。思うにこの「ゲームの進化が止まった論」っていうのはいくつかの事例が考えられると思う…そのうちで一番近い比喩・たとえがある種の芸術論と同じ論拠だ。

さて、例えば、芸術の中でも小説について挙げてみよう。俺らは小説をはじめとして”文芸”をある種のゲームの/シミュレーション的な世界としてとらえ読み込む。するとどうなるかっていうと、まぁ、文芸は思うにかなり(近代までは…)進歩してきたと思う。古典的な文芸・近代的な文芸・現代的な文芸へと道辿ってきた。古典的っつってもあれって、天才書くと、現代性のある傑作になったりするからそもそも進化は止まっていると考えることもできる。孫氏の兵法はいまでも立派な現代の軍事学校の教科書である。

いっちばん簡単にいえば、ゲームと同じように、文芸も進歩が現代では、止まっている。筒井康隆でさえ、文芸を合理的差別におとしめることでしか、文芸の進歩をたどれない時代になった。村上春樹も、純文学系を発展させようさせようとしてるけど、現代作家として彼に対しては批判も多い。あれが小説と呼べるのか?とな!これとデジタルゲームの世界も奇妙に似ている。そこにシュンペーター的な経済論がどう媒介するかは(度々いうように)わからん…けれどもわかるインスピレーションはあるし、綾野がそういうのも理解はできる。”奇妙に似すぎている”のだ。

ゲームってのはいろんな批判あれども芸術の分野のうちの一つだと思う。だけれども、芸術自体進歩できない時代になった。これは我々が箱物の世界の中に生きている生物に過ぎないということだ。ゲームだろうが文芸だろうが絵画だろうが音楽だろうが、芸術や創作性の限界点が人間の限界点として見えてきたんだ。デジタルゲームも同じだ。これを解決するにはマクルーハン的な人体拡張論を持ち出さなければならない。例えば、以前から言っているようにVRはそのうちのツールだろう。また、AR/MRもそうだ。

かつて、哲学者ニーチェは「時間は無限だが、人間や物自体は有限なので、歴史は繰り返し終わることがない連綿たる空虚に陥る」とした。これが永劫回帰という概念で、デジタルゲームの世界でも同じことなんだ。創作者は無限に存在し、AIもそこに入ってくるだろうけど、その制作のためのパーツは有限である。だから似たような同じようなゲームが最近多い。文芸芸術とほぼほぼ同じ。これはヨルシカのナブナが言っていることと同じ(つまり音楽芸術の世界でも同じ)。12音階シェーンベルク的な音楽に無限性は皆無で、有限性しか存在しない。12の音階で表現できる立場は限られてる。J-POPが廃れたのも同じ理由。それはJ-POPが悪いわけではなく、歴史の必然だったというだけのことだ。ある程度拡張論はあるけど、ゲームも同じ…

ゲームはだからこそもう進歩しない。FPS+MUSICとか、RTS+ACTとか、FPS+TPSとかいろいろある。でもそれっていわゆる「組み合わせ最適化」の問題に過ぎない。ゲームは既存のゲームシステムの複合にしかならないんだ。だから、進歩しない。できることはPongに始まりかなり進歩してきたけど、リソースが限られてきた。奥谷が4亀で振り返るのを見てもそう思う。

リオタールも言うように「大きな物語の時代」は終わった。「新たな芸術の時代」も終わった。それだけのこと。ただそれだけのこと。