AUTOMATON所属ライター沢畑~ゲームにおける”自由度”を考える動画をYouTubeにうp【考え方の要約】 | ゲヲログ2.0

AUTOMATON所属ライター沢畑~ゲームにおける”自由度”を考える動画をYouTubeにうp【考え方の要約】



AUTOMATON所属のライター沢畑が『ゲームの自由度とは何か?』ということを考える解説動画をYouTube上にうpしている。この動画は、その”自由度の定義”を求めるものではないと沢畑は言う。沢畑によれば、本動画は、”ゲームに共通する自由度とは何か?”を考慮するためのものだという。この違いについてはもはや言うまでもないだろうが、所謂、定義論争になるとあっちいったりこっちいったりの”無駄な論理”に帰着してしまい、生産的な話ではなくなるのだ。

おそらく沢畑もこの”水掛け論の非生産性”はよくわかっているのだろう。繰り返すが、動画内で解説されているのは、『多くのゲームに度々発見できる自由度とはどういうものなのか?という経験則を考えてみる』というテーマに基づくものである。端的に言えば、ゲームは経験則であり、経験論理に基づいて作られる主観的なエンタメなわけだ。沢畑は三点に絞って自身のゲーム的経験の論拠から続ける。それによればゲームの自由度とは次のような特徴を持つという。


①攻略のための√取りが多様でバリューを生み出しているゲーム性を持つ.

これは優れたローグライトなどで顕著だが、攻略要素が最適化されすぎておらず、課題解決のための変遷が多様であるゲーム性のことである。つまり、単にゲームを進める際に、ひとつだけの攻略手法に寄らず、多様な解決策を提示できるゲーム性のことだ。他の選択肢を選択したとき、どういったレスポンスが返ってきて、それに対してどのような未知数のワクワク感が感じられるか?ということを、沢畑は示しているものと思われる。

②ゲームのルールを捻じ曲げられるゲームデザイン性を持つ.

例えば、ミニゲームなどの第三のルールを示されたり、ルールの可塑性について自由な解釈で、世界観が広がっていく…そんなゲーム性のことである。これはルール=できることという規則に対して、それが変容する姿を楽しめる、という意味のことだろう。これもまた自由度のうちのひとつだ、と沢畑は指摘する。

③ゲームのルールが決められていない傾向のあるゲームデザイン性を持つ.

これは、沢畑自身は気付いていないかもしれないが、おそらく②の亜種だ(故に②´と表記してもいいかもしれない)。つまり自由度とはルールを主観的に解釈できるものなだけではない。自由度とは不自由度の最小限界をその限界まで浸食できる…とする論拠である。つまり、不自由度=できないことを低減させることで、リアルとイメージとの対比をできることにする、オープンワールド的な考え方そのものである。

※①~③までのまとめ

これら三点をまとめてみると次のような特徴が共通して見えてくる、と沢畑は指摘する。一言でそれを表すと、『ゲームのコントロール性』である。つまり、沢畑は、ゲームのプレイヤーがコントロールできる部分(自由度)を駆使し、それが何らかの魅力的価値(バリュー)を持つときにそれ(ゲームの自由度)がプレイヤーからして好感に感じられる…としている。


沢畑の論拠は確かに興味深い点を多々持っているし、おおむね妥当な論理だとあたしも認める。だが、曖昧な点も多い。これは考察であり定義ではない…ということは本記事でも上述の部分にて重々確認し、その源である解説動画内でも強く述べられている通りの、当たり前のことだが、批判できない点がないか?というとあたしは十分にあると思う。

例えば、ルールを巡る共通項として②と③の説明部分では概ね同じことを言っているし(ルールにおいてできること&できないことというのは同一として、あるいは単に亜種として考えた方がシンプルである)、まとめの項で述べていることも①は特異な指摘だが、どちらかというと②と③の併合に近い結論だ。沢畑の主張する『ゲームのコントロール性』とは実はゲームの自由度と直に接している当たり前のことであって、それを追認する論拠にしかなっていない、という点でこの論の批判は十分できるとあたしは思う。

むしろ『ゲームのコントロール性』という事実を指摘するのであれば、どちらかというと顕著に行動主義的な論を持ち出した方が妥当だ。詳しく説明するが、まず、次の画像を見てほしい(事実上、沢畑の主張する②+③のまとめがこのモデルで呈示できていると思う)。

プレイヤーはできることとできないことによってその間に生きる、自由度+不自由度の世界の住人である。これができることとできないことの拮抗モデルだ。だが、自由度のほうができることという意味で、不自由度よりも先行したプレッシングのパワー(このゲインの理論は、√取りを自由に解釈できるという意で①の考え方に近い点すらある)を持つ。例えば、プレイヤーによる行動の起こし方によってできる部分が拡張されることはままあるわけだ。次の図がそれを簡単に説明している。

つまりは自由なこと自体は、できないこと=不自由なこと以上に、生産的なプロセスを持っている。自由さは不自由さに先行する優先的な行動環境の現れなのである。そしてこの自由な部分がプレイヤーの主義・主張・何より行動によって拡張されていくと、世界観はそのゲインの部分だけ当然広がっていく。第二図はこれを表している。


この『自由度と不自由度の拮抗モデル』については過去記事で提示してみたことがある。それなり辛らつに沢畑の論を批判した上で言っているけど、この議題や彼が呈示してくれた経験則、ゲーミフィケーション(ゲームの知見を実地的・社会的に応用する試みのこと)的な意味でも、かなり興味深い考察であることに間違いない。面白い動画だ!