あたしも生粋のNetflixer(笑)なので、「アダムズ・ファミリー」のスピンオフである「ウェンズデー」に夢中なのだが、この作品を見ていてふと気になったことがある。その本題に入る前、前提として、「ウェンズデー」の素晴らしい点を振り返っておこう。
ドラマ「ウェンズデー」はクオリティーが極めて高い作品だ。才気あふれる俳優が演じる登場キャラクターおよび舞台設定とストーリーの魅力は引き込まれるものがある。超能力もの、とひとえにいえるものではないし、そういってもいいとはまったく思わん。では、コメディー風よりの作品,,,というわけでもない。確かにその毛はあるが、超常現象を取り扱っているのに、現実感がある映像作品でもあり、いわばエドガー・アラン・ポーの作風を現代に蘇らせたような連続ドラマになっている。「ウェンズデー」は極めて精巧にできている傑作ということを誰もが認めざるを得ないだろうし、そうした評価も既に下っている。対して、日々感じるのは、邦画の凋落である。洋画・欧米の映像作品には「ウェンズデー」のようにすさまじいクオリティーの作品がしばしば出てくるのに対して、なぜ邦画はつまらないままなのか?という論に納得いくかたは多いはず。これについては、あたしなんぞやと考えを同じくした方が、Quoraで質問を投じ、それに対してまま納得のいく答えが出ている。それをちょっと紹介しよう。
Quoraの質問は、ズバリ”言ってしまっている”ので邦画関係者にとってはかなり辛いところだろう。質問の内容は表現するには一行で済む。『なぜ邦画はつまらないんでしょうか?』という、かなりキッツキッツの質問だ。これに対して質問に対するメイン回答の項目で玉利氏・高橋氏・山崎氏・畑山氏の4つの回答がついているのが見て取れる。中でも一番注目に値するのが高橋氏の回答だろう。氏の回答をまとめるとこうなる。
・邦画は日本文化を舞台背景にするので日本的に常識識なリソースしか活用できない.
・ゆえに邦画のリソースは人材面でも素材面でも枯渇している.
・特に人材面では日本人を起用するので必然的に大根役者が多くなる.
・よって物語の創造性や制作背景のマッチング面で邦画的齟齬が生じるのは当然である.
これは奇妙にも日本のゲーム産業に似ている面があるとあたしは思う。かつて、日本のゲーム産業は間違いなく世界一の市場競争性を持つ産業分野だった。当時、クリエイターはうまいこと『リソースの管理』をしていて、物語の枯渇・キャラクター性の枯渇というものが、ネガティブ要因として作品に働くことがなかった。大卒のクリエイターも専卒のクリエイターも学歴に関わらずフリーダムにアイデアを持ち寄り、平等に市場参入しリソースをうまいこと作り込み、管理していた。いわばそこは人材の宝庫であったとともにリソースの宝庫だったわけだ。そうして作られたゲームは、日本の背景特有の世界観を持ち、そうでなくとも洋風な理解をフレキシブルに投影し、深く共感の意図を示せるものが多かった。邦語環境は洋風環境にも従順にアレンジできて、キャラクターをはじめとする素材・リソースの管理に配慮しながらもチャンレジブルに課題に挑めた。
ところがどっこい2010年代に入ってから、邦画はもとより国産ゲーム産業は没落・凋落の一途を辿る。様々な要因が考えられるが、一言で言えば魅力的なゲームプロットが枯渇し、それに伴いコンセプチュアルに優れたゲームが激減していったことは間違いない主要因だろう。例えば、スクウェアはゲームからの展開と称して迷走し、FF-IPを畑違いの映像作品に転化してしまったことで、結果的にエニックスと合併することになった。カプコンも当初優れていたバイオIPをはじめとするリソースを無理難題なプロットに当てはめることに徹してしまい、予算も人材も両面で余裕がなくなっていった。それは創造物を作るフリークリエイションの立場から言える『リソース管理の曲解・誤解』だった。ファンがフリーダムに作ろうとした傑作IPの理想的続編も権利がらみでつぶしにつぶして、共同制作の夢と計画は暗礁に乗り上げた。2020年代に入って、スクエニもカプコンもようやっと反撃の狼煙を上げられるようになってきた。例えば、過去作のHD化でスクエニは息を吹き返し、ピクセル調の新規IPにも旺盛に取り組んでいる。カプコンのバイオIPはファンメイドと協調することで、Reシリーズとして復活しただけにとどまらず本来のシリーズの魅力を再発見した。ゲーム制作における『リソース管理の曲解・誤解』という過ちに気づいてきたんだ。
ゲーム産業が復活した一方、邦画はリソースの再活用、すなわちリメイクができない映像形態を必然として持つ(表現としてはこれが一番わかりやすいはず)。ゲームはリメイクができる。だから、国産ゲームは最近になって巻き戻しの強みを増しているが、邦画にはそうした展開・応用的手法は不可能である。いわば”無理な焼き増し”をすることはフィルムではできないが、ゲームでは技術革新とともにできる。一言で言えば、これに尽きる。Quoraでの回答にある通り、マーベル作品の役者を日本人に置き換えて映像化しても、そこにまったく魅力は生じないだろう。だが、ゲームならば、キャラクターを当てはめれば、それ(に似たようなこと)はできる。FF-IPはオンラインゲーム(MMO)という形で、バイオIPはフルリメイクと言う形で、それぞれ復活できた。映画ではこういった小手先の話は当然通用しないどころか、それ自体が不可能である。つまり『リソースの枯渇』に対する対抗策が邦画では取れない。凡庸な日本の映像作品にしかならない。これは何も制作の現場に関わっているかたがたの責任や能力不足というわけではない。
Quoraでの回答にある通り、邦画は邦画として日本の文化的背景を舞台にリソースの枯渇に対抗しないといけないんだけど、リアリスティックに考えてみると、それは不可能である。バットマンやアイアンマンを日本人が演じられるわけがないし、「ウェンズデー」のような英語ベースで創造性に長けた、いわば常識を踏まえたうえでのリアリズムのある想像性は日本人で発揮できる人材は無きに等しい。洋画シーンでは、新しい若手俳優・ヒーローが多く登場するが、邦画シーンにはそうした環境整備が為されていない。この環境は人為的に改善できるものではなく、邦画の環境面での必然的な現象としか言いようがない。
だから,,,邦画は死んだまま・つまらないままなのだ。