これは『格差と暴力・宿命と涙の物語』【Arcane(アーケイン)】~シーズン1総括 | ゲヲログ2.0

これは『格差と暴力・宿命と涙の物語』【Arcane(アーケイン)】~シーズン1総括



LoLのアニメ版「Arcane(アーケイン)」を見て、いまさらながらショックを受けた。
勧善懲悪のみでは描き切れぬ部分をカバーリングした様々な価値観の融合…
”こいつはすげえ”と小島監督を唸らせただけのことはある。

これはある姉妹を巡る『格差と暴力・宿命と涙の物語』である。


まず本作を見ていて思い立ったのが、アーケインで描かれる、見事なまでのリアリティある格差の世界。これが二分された世界による二項対立として描かれている。それが富裕層の暮らすピルトーヴァーと貧民のための地下都市街ゾウンである。現代の世が往々にしてそうあるように、アーケインの世界でも、資本はその蓄積とともに必然的格差を生み出す。そしてその必然的格差が進むと、階級の暴力装置が働き、悲劇を生みながら世は進歩していく。だが、その進歩に伴い、数々の不幸の連鎖が、これまた必然的に生まれる。アーケインが描くのは徹頭徹尾、この悲劇を体現してしまう登場人物たちの群像的ドラマ性であるといえる。

主要な登場人物はゾウンに暮らすものたちだが、シーズン1前半は実質、ヴァイとその妹パウダー(後のジンクス)に絞られているといいきっていいだろう。ある日、ヴァイとパウダーは仲間を連れて、ピルトーヴァーに盗みを働きに行く。高級な品を貧民街の鑑定士に売って金・物に交換するために、だ。ヴァイはこのように言う、『ピルトーヴァーに住むものは富を蓄え、我々ゾウンの民は泥水をすすって暮らしてきた』と。『認められたいなら、自分の手で稼ぐべきだ』と。ピルトーヴァーとゾウンの間では現代の我らの世界では考えられないほどの格差が生じている。”格差は必然的な暴力を生み出す、我々はその犠牲者に過ぎない…”ヴァイはそう主張する。『悪いのはあたし、パウダーは悪くない、怒るのならあたしを怒れ!』

だが、盗みという悪行を働き、それが露見しようともなると、ピルトーヴァーから追手エンフォーサーが送られてくる。ついにゾウンのリーダーまで討たれ、ヴァイとパウダーは仲を違いにする。アニメ・アーケインで描かれているのは、そういう意味で、決して悪と善との対立ではない。むしろ善と悪は混合していて、その中で苦しむ人々を描いている。主要な対立項は富と貧しさであり、そこから生まれる格差による悲劇に見舞われる、とある姉妹(ヴァイとパウダー)の分断である。

かつて、映画スターウォーズは、勧善懲悪に拘らない物語の作り込みや群像劇的な遷移表現で世界を席巻した。アーケインもこれに近いものを持っている。既に述べたように善と悪、この二つの要素はアーケインの世界では混合していて、世の常をして描かれている。特にシーズン1の冒頭~序盤ではその傾向が強い。だからこそ、ヴァイはケイトリンに救われ、治安維持の仮面をかぶることになってる。一方で、暴力には頼らなかったパウダーは爆弾魔ジンクスになっている。まさにダークサイドとライトサイドとの対立がSWのメインテーマであるように、人々がいつなににとらわれ操り人形となるのかが、アーケインの世界でもわからない。精神心理の限界点が描かれ、ヴァイもパウダーも個人個人の背景を幾たびもつげ変える。

一方で、群像劇というテーマ性も見逃せない。群像劇とは大まかに言うと、『登場人物の話の軸が幾多にも展開され、それが物語後半に行くに従い、縮約されていきまとまっていく』ような物語・劇を指す。簡単に言うと大河、というわけ。はじめ、物語のスタート地点はいたってシンプルに見える。だが、ストーリーが展開されていくに従い、ヴァイとジンクス(幼少期はパウダー)に幾多もの軸が生まれ、その軸に従って並列的に世界が語られる。そうしていくうちにヴァイとジンクスは関係性を持ち、姉妹ゆえの運命の巡り合わせがある…こうした群像的な描き方もアーケインの特徴といえるだろう。