桜舞う坂道で出会ったのは主人公と渚じゃないと思う。それは芳野祐介と伊吹公子だと思う。
見直してて思うんですが、KEYの最高傑作てのはやっぱり抽象化された世界ではない。そのストーリの古典的具体性にあると思った。芳野と公子のストーリはすごく素晴らしいですね。絶望と虚構、それに再生の物語がある。芳野は元ミュージシャンそこに挫折と絶望がある。そしてその先に幸福がある。ありていですが、この話は極めて具体性がある。だから具体性がないというストーリの本筋のほうには私は厳しく指摘しますし、ひとつ前そう評論しました。おそらく、CLANNADの話、ルートの中でもありきたりの幸福論やありきたりのアニメーション原案的物語がここにはありません。
芳野の夢はミュージシャンになること。それがかなったとき、音楽としてのすべてを歌った。それが苦しみと隣り合わせであっても歌った。しかしファンとの不幸をめぐってやはり厳しい状態に陥って、薬に手を出す。音楽としての役割も人気もなくなった彼の話は彼自体が主人公に語り継ぐように進みます。しかし彼には「帰るべきところ」があった。それが地元の高校であって、伊吹公子のいるところだった。帰る場所、戻るべき場所が彼にはあった。
それを見てやはり「あきらめるべきではなかった」と言って、「歌を歌い続ける」べきだったのだということに気が付かされる。愛する人にラブソングを歌い続けるべきだった、と。はじめ公子と再会したとき、その時はあまりに怖くて怖くて彼女と会話するのさえ無理でなにを言われるのかと怖気づいて恐怖した。だが、公子はそういうこと、芳野の純粋さに気付かされて”普通の感情の発露として”芳野に接する。そこには、なんの偏見もなしで接してくれて「まだ音楽は続けてるか?」という公子の問いに、感動して泣き崩れる芳野がいました。苦しみ、過ちをもち、しかしながらそこに希望を見出してくれた他人に対して愛を語る…。
この話では苦しみが強いからこそなにか得るものがあるということを記憶させられます。苦しみと幸福とはなにか?それを本気になって考えるだけのリアリティがある。前に俺は「CLANNADでの死別」というものを書きました。それは想像の世界でこのアニメをみていくと絶望にいきついて、愛する人の死という変わりないものに出会うと考えていました。ただし、子供をもち、次に託す思いがあるということはやはり人間の使命であると思うに至った。そこに運命のめぐり合わせがあるのであれば、それは大事なものです。「幸せになってください、それが妹さんの願いです…」
いくつかの学識者はそれは虚無だという人もいます。人間は希望を糧にしていきていく生き物であれば芳野の不幸や苦しみは必然だった。人間は壁を乗り越えて苦しみのなかから何かを得る。幸福がその先にはまっていると信じてみる。今病気になって、苦しんでいる人にすべての希望を与えるつもりがあるのであれば、それはありていながら希望を糧にして、それを望みとして、いまないものに絶望するよりそれを乗り越えた先に、いまあるものに感謝できることがいかにすごいことかを感じています。 きれいごとであってもいい。多少矛盾とかこじつけであってもいい。それでもCLANNADは人生なんだなと思う。
「まだ音楽は続けてる?あきらめないで続けていれば夢はかなうから」
CLANNAD~AFTER STORY~ 第12話 「突然の出来事」より引用
見失ってはいけないことがあった、
歌い続けるべきだった…
誰のためでもなくこのひとのためにラブソングを…