ギルティギアシリーズのメイグッズが届いたので、いまさら「動物化するポストモダン」(データベース消費)を批判する | ページ 3 | ゲヲログ2.0

ギルティギアシリーズのメイグッズが届いたので、いまさら「動物化するポストモダン」(データベース消費)を批判する



問題は『主体なき論拠』をデータベース消費が提示している点だ。これはアート制作者が主体的に作品生成に携わる一方、批評家からしてみれば客観的にものごとを論じようとする、ある種言論的スタンスの差異から来る当然の結果ともいえる。我々はさらに、斎藤の批判から一歩身を引いて論じなければならない時期に来ているはずだ。認識してこそ、解釈が生まれるという説明でも事足りるだろう。数は実数だろうが虚数だろうが実在はしない。あるのは指であって、数自体ではないのだ。我々の数の数え方が十進数なのは、指の数が10本あるからである。

もっとも一方、斎藤が言うような合理的批判はもう東が消費概念を提示してから十年来のものであることもはき違えてはいけない点だろう。年が経てば、その論のありかたも当然のように成熟し、批判も固まってくるものだ。そういった意味で、東の提示したデータベース消費モデルは先駆的であり、かつ、具体性のあった論だったといえる。それゆえ、批評しやすい原論であって、それに相対するように反論もまた自然とすらすらと出てきた、と一定の結論はつけられるのではないかとあたしは思う。