ギルティギアシリーズのメイグッズが届いたので、いまさら「動物化するポストモダン」(データベース消費)を批判する | ページ 2 | ゲヲログ2.0

ギルティギアシリーズのメイグッズが届いたので、いまさら「動物化するポストモダン」(データベース消費)を批判する



斎藤の著書「キャラクター精神分析」を読んだうえで、あたしが提示した論を振り返ると、実はそれは(少なくとも…)部分的には斎藤の主張と近しいものであることに気づかされた。斎藤はこのように言う(「キャラクター精神分析」斎藤環より以下引用)。

”データベース”が奇妙なのは、それが先行”作品”のデータなら「タイトル/作者/制作年/あらすじ/登場人物/評価/批評」などの項目ごとに整理されることになる。しかしおそらく、このタイプのデータベースが想定されているわけではないだろう。

p254より

つまり、斎藤は、データベース消費には一定のパターンニングの説明が足りていない、と説く(それは本来持っていたであろう意味においての”データベース”との対比における矛盾である)。まだわかりにくいだろう。さらにわかりやすく、斎藤はこう説明を続ける。

あるキャラクターの造形を、過去のさまざまなキャラクターのパーツの組み合わせとして”近似的に”理解することは、けっして不可能ではない。しかしそうした引用と組み合わせは、純粋にランダムな順序組み合わせ<だけ>ではなされ得ない。

p255より

今一度例を挙げて解説しよう。斎藤によれば、東の提起するデータベース消費においては、例えばキャラの”顔”でいう一定のパターン、もしくはデータの整列・シーケンスの問題が乗り越えられていないという。例えば、”顔”というものはあくまで一定の様々な要素を巻き込んだある種の最適化されたもの、という実体であるわけだが、これが”顔”の常軌(常識的配置)から逸してしまう場合、顔としてのイメージは沸いてこない。

例えば、アニメーションにおいても美男美女というジャンルでシーケンシングがしばしば働いているが、この顔のパターンが著しく崩れると、それはキャラクターとしての魅力を失う。データベース消費においては、このジャンルのパターンが整列されているように我々は消費しているのに、その理論的支柱においてはその整列性を担保できていない、と斎藤は主張する。これはWikipediaのデータベース消費記事における批判項目においても、深くはふれられていない問題だが、斎藤はラカンの理論(この部分までは記事の概要項目でしっかとふれられている)を背景にこの問題を実際に紐解いている。

また、キャラクターが異なった際の同一性の問題も具体例を示し指摘している。例えば、我々はAとBという別人をその外見で一義に定義している。これがまさしく視覚による情報処理である。そしてA・Bという別人を別人として認識している。つまり、”同一性の問題”をデータベース消費は、人間の主体の観点からほとんど全くと言っていいほど紐解いていない。あくまで、データへのアクセスによって組み込まれる非自律的な構成をデータベース消費は解説しているのにとどまり、そこに主体がないのだ。斎藤は次のように述べ、この”同一性の問題”は微妙な人間の差異と認識論から来るために理論化することが極めて難しいのだ、と説いている。

データベースは顔を生み出すことができないのだ。正確に言えば「顔の同一性」を。データベース理論は、キャラの差異化についてはある程度記述可能だ。しかし同一性の成否については、これだけでは積極的に記述できない。

(中略)

データベースは新しい「顔」を生み出す力を持たない。それは無限の順序組み合わせをもたらすかもしれないが、それだけでは十分とは言えない。

p257より

ここまでが本書で指摘されたデータベース消費の欠落点である。たしかに斎藤が言うように、この消費概念(データベース消費)に対して、あまりに匿名性に依りすぎており、主体的でなく、主観的な論点を踏まえたうえでの客観性の面から生産および消費活動を正確に捉えられていない、と反論できよう。