ヒュンケルはホンマに矢吹丈なのか?もとい「ダイの大冒険」はホンマに「あしたのジョー」の影響を受けているのか?という論拠を言語哲学的に検証する | ゲヲログ2.0

ヒュンケルはホンマに矢吹丈なのか?もとい「ダイの大冒険」はホンマに「あしたのジョー」の影響を受けているのか?という論拠を言語哲学的に検証する

我思う故に我在り

~ルネ・デカルト~
After Frans Hals, Public domain, via Wikimedia Commons

まぁ、評論としてはよくできていると思う。たしかに似ている点は多々あるし、象徴表現にも優れている文章であることは認める。だが、ヒュンケルはホンマに矢吹丈なのか?という点から電ファミニコゲーマーのこの記事を批判してみたいと思う(電ファミニコゲーマー)。

まず、筆者はヒュンケルと矢吹丈を重ねて書く以前に「ダイの大冒険」と「あしたのジョー」を比較し、確かにこう述べている。

少年漫画史上に残る不朽の名作、『あしたのジョー』が、「実は『ダイの大冒険』に大きく影響を与えている、非常に重要な作品である」と言ったら意外に思うだろうか。実はよくよく読み込んでみると、『ダイの大冒険』には『あしたのジョー』から影響を受けたと思われる箇所がそこかしこに存在する。

『ダイの大冒険』のヒュンケルとは『あしたのジョー』における矢吹丈である
より引用

そういった事実があるとはネット上で検索をかけてもあたし自身ほぼ確認できなかった、という点がまずひとつ。そしてもし、そういった事実があるのであれば、ソースを示して証明してほしかった、という点が重要だろう。例えば、この点を『私は「ダイの大冒険」という作品を考える際に、個人的に「あしたのジョー」を連想せざるを得ない』と単純に書けばよかったのではないか?とあたしは思う。そうすれば、読者は腑に落ちて「ああ、あなたの中ではそうなので、後の(ヒュンケル=矢吹丈論)に繋がっているわけね」って思えるじゃん。

ここで断定的に「ダイの大冒険」が「あしたのジョー」に影響を受けていると書くのはいただけない。それを論証するには客観的なソースが必要なので、しっかりとソースを示してほしかった…これがあたしの思った批判の出発点。もし客観性を示したければソースを示してほしいと思う(あたしが同記事を確認した際にはそういったソースリンクがなかった)。

現に、本当にそういったソースがあるのか?ということを今、確認したい。Google検索で、「ダイの大冒険 あしたのジョー 影響」と検索してみると、検索結果にはまったくそういったソースは出てこないし、筆者がその具体的な例とする、「ブラッディースクライド コークスクリュー」と検索してみても、影響を受けているという明確なソースはない。つまり、客観的に『「ダイの大冒険」が「あしたのジョー」に影響を受けているのをご存じだろうか?』と言われても、そういったソースがないのでそれは立証できないことになる。

よく論述に客観性の求められる解説文著者の中でも勘違いしてる方がいるけど、『あれとこれが似ている』というレベルならば誰でもできることだ。例えば、『雲と綿あめは似ている』だとか、『ウィナーの理論とアリストテレスの理論は似ている(これはウィナー著の岩波文庫版「サイバネティクス」のあとがきに実際ある)』だとか、なんでもいえる。この文体の構造は言語学的に考えて、言っていることは村上春樹の論を池田信夫が批判していることと同じ構造である。池田は村上春樹の論をこう批判している。

「原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題」だというなら、累計で50万人以上の人命を奪った自動車や、毎年13万人の死者をもたらしているタバコを認めるか認めないかも、国家の基幹と人間性の尊厳にかかわる包括的な問題だ。原発だけが特権的な大問題だというのは、マスコミの作り出した錯覚である。

池田信夫 blog : 被災者の地獄への道は村上春樹の善意で舗装されている
より引用

もちろん、解説文であるにせよ、評論文であるにせよ、『そこにはなぜ似ているのか?なぜそうなのか?』といった詳解が必要なことは間違いがない。『AとBが似ている』に対しては、『じゃあ、だから何?』ってなる。評論の始まっている部分に客観性がないので、少なくとも『私は「ダイの大冒険」を見る(読む)際に「あしたのジョー」を連想せざるを得ない』という個人的な見解にパターン展開してもよいのだ、という事をこの記事の筆者は失念されておられでないか?とあたしは考える。

もちろん、評論の中にはこうした本質的なコアなる部分が必須なのだが、この論のベクトルとしては、この論は”客観的に似ている”☞だから”こういう理由なんですよ”という流れになってしまっている。逆にするという論もある。”こういう理由なんですよ”☞だから”客観的に似ている”という解決法もあったはずだ。これは、重ねて言うように評論する人がよくしてしまう勘違いの構造だ。

もちろん、この評論のコアの部分・本質的な部分がある程度納得のいく合理性があるがゆえ、”客観的に似ている”ということから始まる巨☞その説明という構造はもったいなさすぎる。少なくとも優れている説明書きのほうを優先させて、だからこそ、『「ダイの大冒険」と「あしたのジョー」は似ているのだ、そういう理由付けが可能なのだ』と言えば自然な論拠のフローになったはず。これは実は演繹と帰納の違いを本質的に理解していないからこそ起きるしばしば世の中に点在する勘違いである。立派な学者でも同じ間違いをすることは度々ある。本論評の筆者の筆致は素晴らしい着眼点にあるし、エンタメの評論としては全体的にはよくまとまっている傾向があるからこそ、大局的な面で粗が残る記事になってしまっているとあたしは思う。

もうちょっと書き方に工夫があれば、自然な立証(客観性のある論)になったはず。とても興味深く読める題材なだけ、あるいは筆者の論舌の技術がしっかりあるからこそ、(大きな面から見てみると…)残念な評論になっている、とあたしは思う。

とはいっても、かねがねいい評論だとは思うけど。