【インディーゲーム開発冒険譚】あえてゲームを古典的グラフィックスで描くという事 | ゲヲログ2.0

【インディーゲーム開発冒険譚】あえてゲームを古典的グラフィックスで描くという事

あたしも新鮮な驚きを持ってして、このゲーム「Alisa」のSteamストアページを見たけれども、確かにこのゲームの根底に流れる思想・エッセンスはかなり貴重であり、かつ着眼点として優れている。端的に言えば、『ローポリ』。だが、単なるローポリゴンの意ではない。『思索にふけるローポリ』ともいうべきすさまじいコンセプトを持つゲームだ。次に示すタイトル、「B67」もその部類に入るだろうが、「Alisa」の場合、明らかにそれを超えているエッセンスを含有している。

あたし思うに、我々が考える以上にゲームはどんどん進化していった。システムは複雑化し、ゲームの考え方に最適解が求められるようになった。その結果、ごく自然と『最高のゲーム』となるべくして打たれる次の一手が、サラリーマン化したゲーム開発者にとって苦渋の決断となってしまったのだ。その現状を稲船氏は4Gamer.netのインタビューの中でこのように表す。ゲーマーの要求は日が経つにつれにどんどん高まり彼が言うように、『ズレ』が生じてきたわけだ。ゲームの画質は特にその顕著な部分だ、という。現に同氏はこのように同インタビュー内で答えている(以下、4Gamer.netの記事より引用)。

稲船氏:もっともっと。もっと面白いものを,もっとキレイなものを,と人間の欲望は上がっていきますよね。これは当然のことだし,別に悪いことではありません。でもそこに問題が発生しました。ユーザーさんの「もっと」と,クリエイターの「もっと」が,大きくズレてきてしまったんです。

稲船敬二氏は,何を思い,何を考え,何を目指してカプコンを辞めていくのか。渦中の氏に直撃インタビューより引用

これは言い得て妙に現実のゲーム開発に当てはまる。グラフィックスをもっときれいに、もっと面白くすれば、タイトルは極限まで絞られ、寡占市場に収束してしまう『単なる関数』のごとくふるまうしかない。ただし、ゲームというものは、空想の中に自分のありかを求め、その想像力でもってして世界に羽ばたける心理的要素を持つエンターテイメントだ。だからこそそれは『単なる関数』であってはならない。Inputを置いて、その後Outputを紐解くだけのサイバネティックなゲームは、本来ゲームではないはずなのだ。だが、それが現代のゲームになってしまっていることに稲船氏は警鐘を鳴らす。

では、このトートロジー的な定義の兆候に対抗するための策はまったくないのだろうか?否、あるのである。しかも”インディーゲーム市場に”だ。開発費をほとんど必要としない、ソーシャルな回答があってもいいのでは?そのように、ゲーム「Alisa」は問題提起ができている。ではそれは何か?

このタイトル「Alisa」がとった手法こそ、PS初期ポリゴンのワクワク感にあふれていた時代・初期バイオ黄金時代や市場が”「Dの食卓」like”だった時に、時計の針を巻き戻す方法だ。無論、時計の針自体が戻るわけないので、正確に言えば、古典に学び、古きを懐かしむだけでなく、それをシンプルにリスペクトしたうえで、再現する手法であるといえる。ゲーム「Alisa」はその古めかしさに学び、それを踏襲、再表現することに成功しているゲームなのだ。

単に古典を表現するだけであれば、”猿の物真似”でゲームは終わる。だが、ゲームが進化した今だからこそ、古きをリスペクトしたうえで、再表現する手法は取りうる選択肢のうちの一つだ。それは『インディーゲームの逆襲』であり、ドット絵や2Dゲームの再勃興であってもいい。だが、本作「Alisa」が提唱するように、3Dの世界であっても…それはそれでまったく問題がないわけだ。そういった『含蓄の意』において、開発費の問題も含め、「Alisa」はエントロピーの増大した現代だからこそ得うる模範回答になっているはずだ。その”意”において、本作「Alisa」が単なるゲームに留まる存在であるようには、あたしには到底思えない。