藤本タツキの漫画「ルックバック」とは何か?【考察兼評論】 | ゲヲログ2.0

藤本タツキの漫画「ルックバック」とは何か?【考察兼評論】



「ルックバック」序論

ちょっと見てみたんだけど、これって天才の漫画ですね。特に「ルックバック」で顕著な傾向がありますけど、構造的な問いというものは呈するのが難しいところではある。であるのですが、難しい構造的なまとまりを軸にコマが簡潔に澄んでいる,,,とする評が良い筋を突いているのではないでしょうか?識者が曰くように『数コマで本質を描く』という点に尽きると思います。数回読み比べてみてみる価値はあるけど、長く読める漫画ではないな、というのが自分なりの意見です。またその必要もないように思います。

※藤野タツキ同著「チェンソーマン」も上拙写に載っているので、機会があったら、いずれ比較してどういう作風の漫画家なのかを重層的に評論してみたいと思います(今回は「ルックバック」オンリー)。

エゴと理想とリーダーシップ

漫画「ルックバック」で描かれているのは藤野と京本の友情ですよね。特に序盤はその興成が描かれている。藤野は京本の漫画をみてエゴと理想を感じる。そしてその画力の差に藤野はまず感づき漫画に絶望する。ですが、実際会ってみた京本に漫画の本質を諭され、称賛されて、理想を超えたリーダーシップを得るわけです。そこから切磋琢磨し、両者ともに協調して能力を上げていく。この時点で漫画のリーダーは間違いなく京本にあるのではなく、藤野サイドにあると思われます。物語の転換となる部分も藤野が折り込んだ漫画ですし、まずまずその前の段階で、藤野のリーダーシップがなければ、つまりパース主体の京本の芸術画だけでは無理,,,と言う意味で藤野の奇跡的な確率かもしれないプッシュがなければ、この物語は成立しないわけです。端的に言うと、二ページぶち抜き、雨の中喜び躍るシーンで藤野は京本に漫画のリーダーシップを託されたわけですね。ここまでが漫画ルックバックの序盤の全てです。次の京本の言葉に序盤のすべてが詰まっています。

藤野ちゃん部屋から出してくれてありがとう(p63より)

滝昇るサカナのように心躍るのは読者も同じ、というわけですね。

二つの世界の持つ構造主義的イメージ

Wikipediaのあらすじにはこうあります。ここがおそらく本作ルックバックのあらすじの中でも一番重要なところでしょう。付記しておくと、少なくとも単行本の内容の時点では、事件の犯人像がステレオタイプな疾患だという評はアテになりません。精神疾患のような描画もないですし、むしろ事件が起点になっているだけで、その事件を超えてなお、藤野の四コマ漫画が起点になっているので、事件は伏せられているに過ぎない。と話がずれたので元に戻そうか…

事件をきっかけに、物語は2つに枝分かれする。1つは「京本が死亡した本来の世界」、そしてもう1つは「小学生時代に漫画をやめた藤野が、藤野と出会わずに不登校を脱して美術大学へ進学した京本を犯人から救い出し、また漫画を描き始めるという、存在したかもしれない世界」である。

Wikipedia – ルックバックより引用.

二つの世界に分岐して、それが結果的に交わるんですよね。結局のところ、藤野の漫画が出発点のベクトルになっているのは少年期と同じく、よくわかることです。藤野の折り込んだ漫画を通じて、二つの世界が通じているということになる。そして、救えなかった京本の人生を救ったという紙ばさみ=ポートフォリオ≒リードを無理的だが、かつ自然的につなげている。いかにも斎藤先生のような精神科医が好みそうなラカン的構造主義の漫画だと言えます。それは境界だとかNとかPとか表記の記述とかそういうことは幾らでも論じることができると思います(ここではそれは控えますが)。かなり巧妙に仕組まれた、ですが、漫画の本質を描いた、まさしく技巧の為せる業ですよね。だから天才的で、もう評論する必要はない漫画、それが「ルックバック」でもある。

京本は死したのか?空間と明示的媒介

これってでもWikipediaにある通り、ホンマに事件で京本が死んだ、という意味合いだけで論じれるものだろうか?と思わざるを得ない。自分としては、京本は本当に死んでいないと思うんです。だって、藤野が京本を救ったからですよ。藤野のつたない四コマ漫画が物語を繋いでいる。ふたつの世界に分岐したかどうかってのは結論が容易につくほどはわからないと感じます。京本が死したかどうかということすら、ホンマにそうなのか?という点では少なくともわからないんと感じているんですよ。むしろ、藤本タツキとしては無理にでも京本を救おうとしたのではないでしょうか?読み切りの漫画でこれほど絶望のみを描く漫画家がいるだろうか?いずれにしたって、たしかに藤野がきっかけになっているのは同じです。京本を不登校から救ったと同時にそれを超越して京本を死の宿命から明らかに救っています。これは本編を読めばわかるのですが、明らかにp123あたりで京本の部屋で風が吹いて、京本の死に絶望し涙している元世界の藤野が(その風吹きで掬われた四コマ漫画を手にすることで)ある種救われているんですよ。死んだ世界線(元世界)不登校時代の京本の部屋の前で泣いている藤野は救われているんですよ。場所と時間と空間を介して、明らかに。

歩とサインと「希望のルックバック」

そうして、藤野が漫画家をいずれの運命の元(なのかな?)、いまだなお続けている,,,ということが示唆され、物語はそのまま幕を閉じている。言うなれば、元の世界の中にいる人物の存在がフラッシュバックしているのは確かに藤野側の描画としてある。藤野の振り返った先には藤野”歩”というフルネームの、自分の書いたサインが描かれている京本の上半着(おそらく緩めの上着ですが,,,)がたしかに存在する。それを見て藤野は(おそらく)またペンを握っているわけですね。ペンは折られたんじゃない、そこで絶望しているんじゃないんですよ。むしろ、希望抱き、藤野のフルネームの通り、京本へのサインの贈り物を通じて、また漫画に真摯に向き合う藤野の姿が(少なくとも片方の世界線には,,,)確かにあるのです。そういう意味で漫画「ルックバック」は『ルックバック』している。歩んできた道を振り返りながら、また新たなる”歩”を既に始めている人物像がそこにありました。今なら確信できる。

絶望なんかじゃない、この世はむしろ絶望とともにある希望と未来に溢れている。

だから言わせてもらう。この漫画は「希望のルックバック」を描いた作品なのだ、とね。