【連載:クマでも読めるブックレビュー】「核の忘却」の終わり(頸草書房) | ゲヲログ2.0

【連載:クマでも読めるブックレビュー】「核の忘却」の終わり(頸草書房)



「核の忘却」の終わり – 株式会社 勁草書房

世界の人々は冷戦後、ソ連と米国の核対立が紙一重のところで回避できてから、核を長らく脅威と感じていない時代を過ごしていた。これを本書は「核の忘却」と定義する。ただし、その間、そういった市井の人々が気付いていないうちに、地政学的なリスクも含めた国際情勢は多軸化の一途を辿り、その複雑性は明らかに増大した。例えば、米国の一極主義、もっと踏み込んでいえば、米国による平和=パクスアメリカーナはその覇権失墜に伴い限界を呈しつつある。また、新規技術の進歩により核技術は格段に進歩したし、既存技術の浸透により核技術のコモディティ化も進んだ。これらの要因が複雑に交絡することで、核の多軸化に拍車がかかり、核の時代が再び到来しつつある、と本書は冷徹にも指摘する。これが「核の忘却」の終わりである。ステージは巡るめく進展し、国際体制は、冷戦中米ソ二大大国による核対立の時代から、その二国による冷戦後の核抑止の時代へと、さらには、国際的な核拡大ないしは核多様化の時代へと突入した。すなわち、核⇛非核⇛核というように、人々が気付かないところで世界の核時代は段を追って進展しているわけだ。まさに、歴史が忘却していた部分が終わりをつげ、新たな核配備時代へと突入した、という。我々は『再核時代』に生きている、という意味合いを本書は全体的に提起している。

本書は、核抑止論を語るうえでも重要な資料である。なぜならば、核抑止を声高に叫ぶだけで、このような核の進歩・核のコモディティ化に対して、対論を提起できるわけではないのは自明だからだ。例えば、核の戦術化により核はその規模の問題以上に多様な形態を維持できるようになり、そうした攻撃的核技術の進展が進む一方で、核弾頭の小型化は当然のように進んだ。そうした中で、北朝鮮のような独裁国家においても、核軍備の実装およびその小型化に着手するためのハードルも当然のように下がった。弾頭を飛ばす高速・多軌道ロケット技術の開発も進んでいる。汎用的科学技術が劇的に進歩・進展したおかげで、我々はかつてないほど豊かな生活を送ることができるようになった一方、工作機械や必要な工作精度・工業的課題の問題もクリアーできる国家体制の数は格段に増えた。各国がしのぎを削って核の多用途化を進め、民生技術が進歩する中でその多用途化が無限に広まりつつある。当然、この傾向は核不拡散計画の失敗に繋がる恐れがある。また、その間政治的な不安定性を民主的各国が抱え始めた。安定的な民主主義の時代に少なくともある程度区切りがつき、政治的僭主により民主各国で多くの民主的政治頓挫の現象が起きている。こうした状態では、従来からの相互確証破壊(MAD)の前提条件は成り立たない。相手が相手の懐具合を見据え、互いに軍拡競争に励み、怯えをさらに増大させているのだ。不安定性が増し、定性的なものが確立されない現代において、従来からの核抑止論は成り立たなくなりつつある。いわば、核オーダーの時代、とでも言えば良いだろうか。お互いがお互いの軍備を公開できず、技術の進展を制御できない現代においては、各個が開発する核技術は車輪のように走り回り、抑止・抑制がきかない。それはミクロ的な意味合いにおいても、マクロ的な意味合いにおいても、である。

問題となるのは、核周辺技術の進展だけではない。サイバー問題との関係性も重要である。それもネットワークに繋がっていないコンピューターを攪乱させることができる攻撃手法もある現代において、安全なところに安全なシステム系を切り離して配備することは基本的にできない。つまりネットと繋がっていないと思われていた部分は、ネットともう既に繋がってしまっているのである。これを本書はUSBメモリなどを用いた盲目点を突いた攻撃手法や妨害攻撃手法として、極めて簡潔・平易に解説している。ネットワークに繋がっていないシステム系も攻撃対象にでき、またその攻撃の実績も事実積み上がっているのだ。しかも、利害を汲みする各国において、である。

簡単にいえば、核が単なるモノだった当時から、現代において核はコトに繋がって進歩し形を変えていると著者の高橋は主張する。「核は抑止として機能する」から持つ時代は終わったのである。「核をどのように使えば抑止として機能する」のかを考える時代に入りつつある、と高橋は言う。つまり本質的な問題として、物をモノとして捉えずに、物をコトとして捉えることが核問題において重要だというのだ。核は、従来からのようにその”存在性”に注目すべきではなく、”機能性”に注目すべき時代がやってきたといえる。それはありとあらゆる周辺の技術と結びつき混迷を深めているが、むしろ、そうした核という物の本質=核のコト・機能性に核抑止力の全てをなげうって考えなければ、現代的な平和の在り方はありえない。現代だからこそできる、核抑止の在り方を考えなければならない時代に来ているのにもかかわらず、前例を理由なく守り、それだけに身を委ねて、考え方を膠着化させてしまうことは、ある種責任の無さの極みであり、現実に即した核抑止の時代を考慮していない、と高橋は述べる。

本書が提起するよう「核を絶対悪として捉える人々」も「核を抑止力として捉える人々」も、皆が平等に読むべき、核多様化時代における平和を考慮するうえで、貴重な学術的オピニオン・集大成が本書である、といえよう。