かつて、俺が紙屋さんに提示した、筑波の研究科には新領域法学を専門キーワードにする学者が結構います(もっとも当然、彼らは俺なんぞやよりもずっと優秀ですけど). 今検索しただけでもこの分野で著名なのは名古屋大学の藤本先生[研究内容を説明するpdfファイル]だと思われます(名古屋大はイノベーティブなとこが文系にもあることで有名).
また、海外でこの分野の先達といわれるのが、ハーバードロースクールのキャス・サンスティーン(Cass R. Sunstein)でしょう. サンスティーンはインターネットと民主主義に関するいくつかの警告で日本でよく知られています. 熟議の果てに理想があるわけではない、ということを論証し、アメリカで議論を巻き押したのが彼の一丁目一番地の問題提起と言えそうです. たしかに池田先生曰く法学が日本では保守的だとする論理もある程度は通用しますが、全部が全部そうなのではないのです. すべて十把一絡げにして批判するのはある種の固定観なのでもうちょい熟考が俺自身必要とされている…そうひしひしと考える次第です.
もちろん、こういうアイデアが法学の最初期になかったのか、というとそうではなくルーツを探ることはできそうです. 例えば、ホッブズの著書にもそういうのがありますし、むしろホッブズvsスーパースター・ ロックの仮対話篇としてすでに彼らの手により出版されてきているともいえそうです. ま、いずれにせよかつてのイギリス法の下では、多額の横領をしたのになんの罪にもならず、そのへんに落ちているごみみたいななんかのきれっぱしを盗んだだけで重罪になったりした判例がありますから、我々はそういう意味で「死者の亡霊に生かされている」わけです. その象徴が”女神さまが血で磨き上げてきた鏡、彼女の抱える剣と天秤である”わけネ.