ただ、ゲームを作るだけ、というゲーミフィケーション | ゲヲログ2.0

ただ、ゲームを作るだけ、というゲーミフィケーション



ゲーミフィケーションのハナシのタネ

あたし、今年の4/10にリリースされた「AC Sailing」を見ていて地味に思ったことがある。これまででも、ゲヲログで執筆者fameも含め、ゲーミフィケーションネタでいっぱい記事を書いてきたけどね、ちょっと思い立ったことがあるんよ。ずばり、『単なるゲーム制作としてのゲーミフィケーションは考えたことがなかったんだよね』っていう…そういう発想っす。んじゃその発想のコアとなった「AC Sailing」ってどういうゲーム何ぞってことよねw

セーリングのゲーム「AC Sailing」

これね、なんとPvPもできるセーリングのゲームらしいんだよね。セーリングって何ぞやっていう方もいると思うんけど、まぁ言っちゃえばタイムを競う帆船レースのことだよな。風を利用して動く船でタイムを競うっていうスポーツらしいんだ。それをゲームにしたものみたいですね。曰くところによれば、究極的なセーリングのシミュレーションなタイトルだそうな。じゃあどこがゲーミフィケーションなのか?っていう説明をするね。

「AC Sailing」の勘所

このゲームの凄いところは、ニッチなニーズに高品質なゲーム内容を提供してるところよね。誰がセーリングをゲームにしろって言ったかは知らんけど、実際やってる。セーリングってそれほど人気のあるスポーツじゃあないやんか。でもニッチなところを突いて、このゲームだったらセーリングのシミュレーションNo1だっていうところがあるやんか、「AC Sailing」。様々なレベルでゲーミフィケーションは多段的に考えられるけど、隙間市場でも輝くとこを押さえるのも道筋のうちの一つなんだな。

ゲームのシミュレーションとしての汎用性

つまるところ、ゲーム制作つってもゲームのジャンルを限定することは必要ナッシング。様々なゲームを様々な競技シーンやシミュレーションに合わせて再現する、ということはよくよく考えればJKな判断のもとの意思決定なんだわ。例えば、なんとかシミュレーションっていうゲーム増えたやん?シミュレーションとして、ゲームを機能させるってのは実は比較的簡単なんだわ。なぜかっていうと現実の事象でゲーム化すべき大枠が決まっているから。トラックの運転手になるものもあれば、カーメカニックのもある、コンビニのもあれば、動物園運営ものもある。

ニッチな市場を突くという社会性

これはね、おそらくゲーミフィケーションを意識したうえでゲームを作ったわけではないと思うんだ。単純にこういうのがあったら面白いねとか、こういうゲームがあったらニッチなところで輝けるよな、っていうそういう発想だと思うんだ。でもその実、ゲーミフィケーションの裏をしっかりとっているんだよな。つまり、意識したところではないが、ゲームの社会性を意識せざるを得ないようなゲーム制作の立場があるってことをこれらの事例は示していると思う。

ゲーム+資本主義=容易なゲーミフィケーション

この裏取りの方法論には確固たる理由があると思う。それが、資本主義だ。いきなり何言ってんだコイツレベルだけど、これって重要。資本主義ってね、いろんなレベルでいろんな競争の理由付けがあるやんか。つまり、社会と密接につながるイノベーティブな試みや企業価値って、実は意識してないだけでいろんなところに潜んでいるんだよね。そいつがゲーム会社と結びつけば、こういうビジネスのモデルがあるからこれをシミュレートしちゃおうっていう発想も共起するわけよ。ジャンルがある、だからゲームになる機会がある。これイノベーションを生み出す資本主義そのものね。

ただ、ゲームを作るだけ、というゲーミフィケーション

ゲームって自由やん。ゲームってこれすなわち金儲けの資本主義のやり方のうちのひとつやん。んだから、ゲームを作るだけでゲーミフィケーション的な社会性を持ちうるってのも、ひとひねりふたひねりあるゲーミフィケーションより単純なものとして、あながち間違ってはおらん。ゲームって金儲けの道具、ゲームってどの領域でも楽しめる社会性持ってるもの。ゲーミフィケーションっていうよりかは、ゲームそのものが社会性を持つパターンのゲーミフィケーションもあっていいやんか。作るだけのゲーム、であっても社会性が多少含まれればいい。大きいプロジェクトにならなくても、そこに資本主義的な社会性がちょっとでも含まれれば立派なゲーミフィケーションになりうる。やっぱ、ゲームの可能性って無限大なんだよな。