この手法に課せられる強い課題もあるだろう。それが…
①’データの比較分析が見かけの統計的交絡に終始しては意味がないということ
および、
②’比較検証の結果、強引なデータマイニングのつぎはぎになっては意味がないということ
だろう。
まず①’について。
データの比較分析が結局のところ、簡易的な統計的解析に終始しては、なんのために奇抜な手法を採用したのかがまったくわからない。結局のところ、Aという系とBという系が似ている、単にそうである、と述べるだけであったとすれば、これは新しい知見をマイニングしているとは言えないはずだ。個性ある研究デザインを名目に置いても、そのデザインの根幹にある目的がはっきりしなければいけない。根幹が曖昧で、単なる分類や縮約、あるいはクラスタリングに結果が終始しては、それは到底独創的な研究とは言えないだろう。ここがこの研究案の課題の大きな障壁・第一関門だと考えられる。
次に②’について。
そもそも系間のデータを比較するといっても、それが強引に結びつけただけであるとなると、なんのために比較をしているのかがわかりにくくなっていく。だから例えば、ある分野のテキストと、遺伝的配列とを比較するといっても、かなりこの手法は強引で比較検証のプロセスに納得性・腑に落ちる点がまったくない、ということになるかもやしれない。だから、なぜ比較した対象がそれらであるのかを完全に、あるいはある程度は納得のいく理由が必要だ。確かに素過程が無為であっても、結果がついてくればよいが、比較を主軸とする以上、やはり工夫や結果付けののちにプロセスを明確にする必要性が出てくるだろう。つまりある結果、極めて高い実証検証性が担保できたとしても、その内実、プロセス・過程がかなりクッキリと、あるコントラストで照らせなれければ研究に意味づけ理由付けができたとはいえない。これが第二の関門である。
とつらつら書いてみたが、やはり”壁”があまりにでかすぎる。もうちょっと考えてみます…