Steamで蘇る『馬鹿ゲー』 | ゲヲログ2.0

Steamで蘇る『馬鹿ゲー』



最近一介のSteamerとして見逃せないゲームジャンルとして『馬鹿ゲー』とでもいうべきジャンルがある。これは決して正式に定義されたものでもなければ通説に基づいたものやタグついたものなわけでもないが、”お馬鹿なゲーム”というジャンルで一定の評価を得ているゲームらのことを指している。

”倫理学的ゲームメーカ”であるベネット・フォディーの作品「Getting Over It with Bennett Foddy」に始まり、メジャーどころでは「Fall Guys」、ハチャメチャ料理ゲー「Overcooked! 」、羊になれるゲームであり羊にしかなれないゲーム「Goat Simulator」、はたまた馬鹿の境地を見出した「ローション侍」などがあてはまるだろう。

こうしたゲームがなぜ評価を得るようになったのだろうか?俯瞰して見ても、これらのゲームは明らかに時代が昔であれば、(みうらじゅんが言うような)『クソゲー』だったはずだが、その逆に評価を得ているのが大半である。これにはいくつかの理由付けがあると思う。

・Steamなどのプラットフォームの発達
SNSライクなソーシャルシステムを備えるSteamの発達はこれらゲームの従来からの包囲網を解き放ったといえる。例えば、レビューシステムや他者とのつながりにおいて、これらのゲームの”真価”が先見の念でもってしてみられるようなったことは重要だろう。どんなゲームでもやりこみが強くなれば、そのゲームの真なる価値に気づく層も多くなる。そういった、”ゲームレビュー”のありかたを巡り、ゲーマの批評レンジが広範になっていったことは、一見して馬鹿とみられるゲームらの評価の逆転につながったはずだ。公共性の開かれた世界で多くの意見を目にして多様性を認めることが重要になってきた。この背景にプラットフォームの発達があることは間違いない。
・プレイヤーの域値の変化
プレイヤーはより多くの安価なゲームの流通を通じて、目を凝らして良いゲームを発掘したいと思うようになってきた。プレイヤー自身の変化が、前述したSNS的なプラットフォームの浸透と共にあるというわけだ。プレイヤーは自分自身の中で、多くのゲームを通じて、まだ飽きない・飽きていないゲームを積極的に発掘するようになっていった。つまりSNSやSteamプラットフォームなどを通じ、プレイヤー自身の変化もまたその公共性の中で培われてきた。その中で自分らゲーマーのつけるレビューの”転向”があったものと思われる。

大別すれば間違いなくこのふたつの理由に『馬鹿ゲー』の再評価は見受けられる。これはゲームの環境について回ってみていけば自然とわかることでもある。例えば、PS1/2の最盛期の時代にベネット・フォディーのゲームがリリースされたとして、その価値を見出すゲーム層がいただろうか?そういったゲームに個性的に彩られた自分にある種陶酔するゲーマがいただろうか?否、いるわけがないのだ。これはSteamやOriginなどが浸透したからこそ…あるいは、そういったプラットフォーム全盛に生きるゲーマが多くいる時代だからこそ…”高評価”がありえるわけだ。

ものごとは循環して、何らかの意図をもってしてつながり、自然とノードとネットワークを持ちうる。いわば一言で表せば、そのパーティーゲーム的公共性がレビュー層に”針圧”したからこそこれらのゲームは蘇った。『クソゲー』は今、『馬鹿ゲー』として蘇ったのだ。