ReoNaの歌はなぜ現代人の心を打つのか? | ゲヲログ2.0

ReoNaの歌はなぜ現代人の心を打つのか?



絶望ソングの誕生

〈コンテンツとして失恋ソングはあるのに絶望ソングは存在していなかった…〉

この考え方は間違いなく面白い。たしかに、ことあるごとにアーティストたちが歌うのは恋愛ものだったり失恋ものだったりする。それ自体がテーマになっていて、コンテンツとしても成立している。が、それゆえにその音楽の市場は明らかに飽和している。だったら、新しいベクトルを持った新しい表現の音楽を作る必要がある、ReoNaの歌は確かにこの答になっている。ReoNaの歌う歌は音楽におけるイノベーション、つまり新しい音楽であるわけだ。それがReoNaの語る【絶望ソング】である。

絶望ソングと新たな商業主義

このジャンル別の住み分けは面白いほどに現代のコンテンツの消費論にハマる。例えば、歌にはこれまで正解がある、と長い間思われてきた。ライブの観客動員数・CDのセールス・タイアップ番組やタイアップコンテンツの成否…だが、ReoNaの歌にはこういった正解が明らかにない。成功する、だとか、セールスで何本売れる、だとかは、これまでの発言から推測するに無縁に近い。正確に言うと、これまでの商業主義と新たなるなにかとの矛盾までをも抱えている、というべきか。既存の商業主義とは別の商業主義、これを持ち出すことができないか?ReoNaの歌はそれを提起しているように思う。この問いに正確に答えるには、その別の商業主義のほうと同じ方向を向かねばならない。ベクトルの方向を修正して、そちらを向く必要が出てきたのだ。では、その別の商業主義とは何か?

評価経済とは何か?

時同じくして、奇しくも評論家の岡田斗司夫は【評価経済】という概念を提唱している。これは経済の概念が貨幣と価値の交換だったものが現代的な価値観と混合し、評価も媒介したコト消費に遷移していることを表している(簡単に言うと)。例えば、いいね!を得たツイートを拡散する・食べログでの評価値を元に外食先を決定する・Amazonの評価値を参考に評価の高い書籍を買う、など。つまり、わかりやすく言うと、評価経済とは、お金2.0ということだ。ただ、そうした資本主義が変わっていく中で、音楽に課せられた役割というものは、本来その価値に訴えかけるものがあってこそ、理想的な音楽であるはずである。つまり、現代音楽は資本主義が浸透した結果、商業主義と評価経済との間に生きる矛盾した産業になった、といえる。

ReoNaの歌が”新しい”ワケ

既に書いた通り、ReoNaの歌は新しい価値を生み出すことによって実現している表現である。つまり、新しい評価を受けることで成り立っている。そして、多くの音楽家はこのアイデアを、知ってか知らずかして、失念しているように思う。つまり、ありきたりの音楽がありきたりの形で消費される現状に飽き飽きしている聴衆がいる、ということはモダンの後の時代、容易に想像できる。これほど価値観が爆発し、いろんなところで、様々な評価に接している我々は、そうした現代社会における消費物のモノ化に対抗しようとしている。そういった中で、恋愛ソングの枠にとどまらない、絶望に寄り添う歌を評価する、ということが現代に受け入れられ始めた、という論理はそれほどおかしなロジックではない。コンテンツとして、また、新しい商業の在り方=利潤の大きさだけでなく、評価を含めた経済の在り方にフロントしているということは容易に思いつけることだ。それがReoNaの場合、絶望ソングだった。

絶望ソングの真意

ReoNaの歌は、絶望ソング、正しく言うと、絶望に寄り添う歌である。孤独感に苛まれ、人間関係に傷つき、常々居場所のなさを感じている、そうした絶望に瀕する人たちに寄り添う歌を送りたい、という声は新しい音楽を追求する方向を向いている。もちろんそれは商業の中で展開される以上ある程度のセールスは必須ではある。だが、そこには評価を気にするReoNaの歌のベクトルが含有されている。ReoNaの歌がなぜ人の心を打つのか?それを紐解くには、その価値・つまり評価の在り方を混ぜて解釈する必要があるようにあたしは思っている。それが、商業主義と評価経済とのはざまにある、苦しげのあるReoNaの歌・絶望ソングなんである。

<了>