マルチエンド?キラーい!
マルチエンディング、というとあたし個人的にはネガティブな感じを抱く。というのも、やっててメンドクサイ!の一言に尽きる。当然、選択肢で話を分岐させるというのがそのミソなシステム。対して、一回ぽっきりの小説性を持つゲームはプレイヤー側からすればストレスにならない。その一回っきりの小説性に最大限フォーカスして関心を持って話を辿ることができるからだ。結末がどうなるか?というマルチプルな選択性が過剰になると興味関心が薄れる側面があたしの中ではデカい。これがマルチエンディングが忌避されやすい理由のうちの一つだろう。
制作サイドが抱えるマルチエンドゲームの欠点
またその欠点は制作サイドの話としても成立する。例えば、マルチエンディングだと選択肢によって分岐するので制作の労力が高くなる。作るのも並行してメンドクサクなる。マルチエンドゲームを作るということは、小説を何個か作ることとほぼほぼ同じなので、コストもかかり、ストーリーの整合性を矛盾なくとることも求められるだろう。矛盾や心理的な忌避感が強くあれば、プレイヤーはゲームから心が離れてしまう。どーしてもEndが過剰になるので、その過剰なゲーム性の中でどのように物語を収束させるか、という問題が新たに提起されるのだ。ではマルチエンディングの利点はないのか?ないとは思わないので、それもちょっと考えてみたい。
マルチエンドゲームの利点
まず、物語の多様性を確保できること。ひとつの結末だけではないのでいかにもゲームならではのシステムを活かすことができる。分岐点でプレイヤーを考えさせることもできるだろう。選択肢を委ねることで多様性のある思慮深い物語を重層的に構成することができる。これはこれで面白い。シングルストーリーに魅力があるのに対して、マルチストーリーにも魅力はある。利点と欠点は、この場合表裏一体(ここでこれを「幻滅と期待感」と呼ばせてもらおうか)なのだ。異なっているテーマやメッセージを提供することでプレイヤーの心理に多層的に訴えかけることができるのも利点なのである。物語が多様であれば、その推移を経ての結末もまた多様である。エンディングが複数あることで、プレイヤーの心理に自由さ・期待感を抱かせることができる。
シングルエンドとマルチエンドを織り交ぜる
もちろんこれらの利点と欠点を活かしたゲーム設計もありうる。例えば、利点を見越したうえで簡単な選択肢を提供することだ。つまり0or1でこのゲームは成り立たないことが重要である。その中間として、選択肢を少なめにしたり、あるいは選択肢をわかりやすくすることで、複数Endの辿り方をストレスフルにしない、というゲーム設計上の軽さを提供することはこのソリューションのうちの一つと言える。ストレスを感じさせない作り方で、マルチエンドを準マルチエンドとして実装するわけだ。この方法はゲーム設計の多様性を加味するうえで非常に興味深いロジカルな論だと思う。0=シングルエンドとすると、1=マルチエンドである。だがその中盤にはいずれも小数点値としていくつもの論があっていい。0.1でもいいし0.5でもいい、0.7でもいいだろう。もちろんマルチエンドや準マルチエンドを考えるにあたりゲームの全体バランスへの配慮重要性は増すはずだ。
決定論・予定調和とシミュレーション
かつて物理学者アインシュタインは量子力学の本質を批判し『神はサイコロを振らない』と述べた。数学者ラプラスは『もしある瞬間における全物質力学を完知することができ、その解析能力を備えた完全な知性が存在するとすれば、この知性にとって不確実なことはなくなり、その後起きる未来は全て知ることができるだろう』と述べた(「確率の解析的理論」)。同じく数学者で哲学者でもあるライプニッツは『全ては調和している』と「予定調和論」を述べた。マルチエンドが良いか悪いか?はこのような決定論的な側面を否定あるいは肯定する試みだと思う。今に至るまでゲームはシミュレーションの中の遊戯としてトレンドな話題を提供し続けている。