DTM過当競争の時代到来か? | ゲヲログ2.0

DTM過当競争の時代到来か?

Manackがクロハのサントラのインナーノーツに書いてたけど(もう二十年ぐらい前かも)、Manackぐらいのプロにとっても怖い時代になったんすよ。というのも昔(といってもそう、二十年ぐらい前だけどw)は音楽コンテンツって、プロが高価な機器を使ってシーケンシングして巧妙に曲作ってきたっていう歴史があるんですよね。今は違う!

例えば、宇多田ヒカルでさえ、作曲部分はKORGのTRITONだけで行っているって聞きます。シーケンサだって、名機である8proを買っちゃえば問題なく、DTM時代の波に乗っていける。それどころか、コンピューター向けにはcherryもあるし、それよりもユーザライクの場合は、イージーコンポーザー・ピストンコラージュもある。つまり、これまで常識だった高価な機器ってのが不要になって、その高価な機器が廉価になっていった。それも”急激に”です。

この余波にはなかなか難しいものがあると思う。というのも、

・Manackが危惧するようにその手の”プロ”が消えてくという問題

があり、かつ、

・音楽汎用論が活況を呈することによって、音楽性が埋没しなけないほどの量産が為されてしまう

というデメリットも同時に考えられるからです。

これは興味深いもので、例えば、シェーンベルクに始まり12音階音楽てのは(ヨルシカのナブナも認めるように…)既に音楽として完成しているもの以外を作る以外ない。つまり新しい音楽というものがない。もしくは現在進行でかなりの大部分ない。日本人の好むコード進行の曲なんぞはすべて市場に飽和状態になっている(民族遺伝的に決まっている音感の一種なのでは?とする遺伝学者もいるそうで)。これがプロが危惧していることだそうですね。

つまり音楽が量産され、誰もがコンピューターの力借りてDTMできる時代になったからこそ、その音楽の世界の中に自分の作る音楽も内在してしまって、進歩が止まってしまうという状態のことを指すわけですよ。これは大変な問題でもある。もちろん、誰もがチャンスを持っているが、誰もが自分固有の様々な才能やセンスを埋没させてしまうかもしれない…。これは実は、小説のパターンだともっと早く伝わっていた。というのもワード(語)のケースだと、音楽よりも表現は多彩だが、創作プロセスは原始的なためです(いわずと知れたワープロの登場でこの”試合”は決まってる)。

たしかにフリークリエイション・無政府主義的生産主義というものも考えられる。だがアナーキズムの中で、人間が本当に生産的になれるんか?っていう疑問には悲観するっていう見方が有力なんだと思うんですわ。音楽の世界も同じ。反論がないわけじゃない。ゲーム音楽やアニソンの場合は違うんじゃね?っていう反論はあると思う。桃井はるこが言うように。ただ、こういったジャンルの音楽もまた量産化が倍々ベースで増えていくにつれ、”当たる”ことがなくなっていくのではないか?

そういうニュアンスのことを指している。