実際、これは分析を加えれば加えるほど非常に難しい問題だ。だから、言語学や音楽の知識は省いたうえで、簡単にここで論じてみよう。
ヨルシカの音楽は語の入れ方自体に特徴性があるのが革命的
— 在宅心理学者ゲヲログ (@hanbun_bot) November 29, 2020
J-POPが廃れてゲーソン(ゲーム音楽含む)・アニソンは廃れていないといわれていることはかなりでかいゲームなりアニメなりの優位なファクターになってることはまず間違いない。Jの曲に対するこのひっく~い評価はインスピレーションとしてもあってるし、似たような音楽ばかりになって収斂しちゃってるってのも批判としては的を得ている。
例えば、これが某音楽プロデューサーの功罪だったりするわけだがw、ヨルシカのn-bunaも語るように、J-POPにおける音階音楽ってのはすでにもう作曲しつくされちゃってて、12音階で表現できる世界観が既存のもので補完可能になっているから、似ていて、聞いていて、新鮮さがないものばかりになったのはごく自然の摂理だ。これも十二分討論されつくされてきた事実にほかならん。
じゃヨルシカの曲に新鮮さはないのか?あたしはあると思う。例えば、これはファメも語るように、語の入れ方・語の特徴、それを上手くあしらえば、新しい音楽が作れるかもしれないというヨルシカの作曲作詞センスがある。次は「夜行」の歌詞だが、これはn-bunaが天才であることを表している。
はらはら、はらはら、はらり 晴るる原 君が詠む歌や 一輪草
他には何にもいらないから
波立つ夏原、涙尽きぬまま泣くや日暮は夕、夕、夕
夏が終わって往くんだね そうなんだね
言語的に分析するのはあまり得意じゃないが、言葉の入れ方・歌詞の調子に複雑な押韻をしているのがわかる。その結果、語呂合わせのような、作用・反作用の関係性を音と歌詞とで動機付けされているのが自然と理解できる。だからありきたりの曲調・歌詞で表現されたものだけではない。そういう意味で「夜行」はヨルシカワールドを端的に示す傑作だとあたしは思う。
桃井嬢はアニソンが廃れない理由として…
・世界観が統一されていて”乗りやすい”こと
・ぶれずに直線的に主題を取り入れられること
・表現の幅が広くこの点でゲーム音楽との相乗性があること
などを挙げている(ラジオで聞いた限りでは彼女の主張はこんな感じだ)。世界観の問題はアニメという映像表現の中で、あるいはメディアミックス的な位置づけの中で、統一感があり、次、その主題性に直接コネクトする点が革命的なのだ。ミクロではなく、マクロ的なグルーヴの面で強みを持つ。だから新鮮さが多い。また、ゲーム音楽で語られるように実のところ裏返せば技術が繊細でかなり多彩な色音を出せるのも特徴的だ。この点はゲーム音楽に影響を桃井嬢自体受けているのは間違いないだろう(番組上でキーボード使ってスぺランカーの主題曲再現してるぐらいだから、ゲーム音楽に影響受けてるのは間違いない)。
ゲーム音楽の点からいえば、それは例えば、古代祐三に代表されるように、技術力が半端なく求められる分野であることが有効に作用しているともとらえられる。はっきりいって、エンジニアでなければ、ゲーム音楽の中身をすべて語ることは不可能だろう。これは、おにたま氏などがOBSのインタビュー企画で何度も特集にしてるぐらい。川井憲次にも似た面がある。田中公彦は川井の音楽性を評して次のように言ったという。
川井憲次の引き出しは1つしかない。
でもそのひとつはとてつもなく深い。
これは川井のパーカッションの部分を聞けばあたしみたいなバカも含め、だれもがわかることだ(実は初代アニメ版「ひぐらしのなく頃に」の音楽も彼が担当してるので聞いてみりゃすぐだれが作曲したかカンでわかる)。独特のリズム感は南米サッカーのドリブルを彷彿とさせる、微妙な美的感覚と押せ押せの攻撃的プッシュ力にあふれてて、破壊力がただあるだけでなく、そこに芸術性が垣間見える。川合音楽の「ひとつしかない深い引き出し」…その真骨頂だ。
さて、ここまで語ってきたが、要点は簡単なんである。
・J-POPが死んだ今、アニソン・ゲーソンに強みがある
・weebと馬鹿にされようが、これらが新しい価値観を作っているのは間違いない
・その価値性には必然的なものがあり、主題と凝縮、技術力と美的感覚のたまものである
といったところだろうか?音楽は別にあたしの専門やないんで間違いがあると思う、あったら指摘してほしいとも思う。