なぜパラリンピックはこれほどまでに”面白い”のか? | ゲヲログ2.0

なぜパラリンピックはこれほどまでに”面白い”のか?

ある人にオリパラに関する話を聞いた。彼女の持論は『オリンピックよりもパラリンピックの方が面白い』というもの。『たしかに面白いといってしまうと語弊もあるかもしれないが、あえてこの言葉を使わせてもらう』とおっしゃっていた。ではそれはなぜか?と聞くと、多様性があるからだ、という。この意見を聞いたとき、ふとある昼下がりの日に見ていたWikipediaの盲ろう者(耳も目も不自由の障がい者のこと)に関する記事を思い出し、腑に落ちた点があった。

この記事によれば、盲ろう者とは非常に障がい者の中でも特殊な環境にあるものだ、という。まず手が使えないよりも目が見えないほうが生活上得る情報量は少なくなってしまう。同じように、足が使えないよりも、耳が不自由なほうが得うる情報量が少なくなるだろう。これはあくまでコミュニケーション上の立場として、目耳の人間の感覚器官の重要さを述べたまでだが、それを踏まえた上でWikipediaの盲ろう者の項目を見る限りこうある。

盲ろうという障害は、その程度に応じて次の4種類に大別することができる。

・全盲ろう(まったく見えず、聞こえない)

・盲難聴(まったく見えず、聞こえにくい)

・弱視ろう(見えにくく、聞こえない)

・弱視難聴(見えにくく、聞こえにくい)

また、各障害の受障歴によって、以下のように整理されることもある。(もともと視覚障害者であった人が、その後、聴覚に障害を持った場合)

・ろうベース盲ろう(もともと聴覚障害者であった人が、その後、視覚に障害を持った場合)

・中途盲ろう(もともと視覚・聴覚に障害がなかった人が、その後、視覚聴覚の両方に障害を持った場合)

・加齢に伴う盲ろう(老人性難聴や老人性白内障など、加齢に伴う疾病によって盲ろう(多くの場合弱視難聴)となる場合)

障害の程度と受障歴による障害像の多様性が、盲ろうという障害の大きな特徴の一つである。

盲ろう者 – Wikipediaより引用

この記事を見てみると確かにこうある。

障害の程度と受障歴による障害像の多様性が、盲ろうという障害の大きな特徴の一つである。

この記事の中で提起されたものを見てみよう。上記の記事では、”もともと視覚障がいがあった人がその後、聴覚障がいを持った場合”を三つのパターンに大きく分けているが、”もともと聴覚障がいがあった人が視覚障がいを持った場合”についての場合分けも障がいのサポート上必要なのだ。そして本題に入るが、これは別に盲ろう者に限ったことではない。

なぜかというと、手足の障害でも盲ろう者と同様に、生まれつき手足に障がいがあったケースと事故などで後天的に障がいを持ったケースとで場合分けができるからだ。このケースはさらに深く考えれば、複合障がいという概念でも論じることができるはず。例えば、手を失ってから足を失い、さらに視覚を失ったケースも考えられれば、足を失ってから手を失い、さらに視覚を失うというケースも考えられる。同様に、視覚を失ってから足を失い、さらに手も失ったケースも考えられる。わかりやすくもうひとつしつこく事例を挙げてみれば、手を失い、視覚を(先天的ではなく)後天的に失ってから、その後さらに足も失ったケースまであるだろう。この三つの障がいのケースだけで3*2=6通りのパターンができる。

このように場合分けがいくつもできるのが障がいを持っている人自身の多様性、Wikipediaでも書いてあるようなもの以上の、拡張された障がい像の多様性というわけだ。さらに、先天的な学習障がいや後天的な精神障がいなども加味すれば場合分けしなければならないケースはさらに複雑になり、その分類に関する学識的な立場もまた考慮すべき極めて重要な点だ。パラリンピックの委員会もこれにはすごく悩みそうである。

今日、パラリンピックの試合を見ると、そういったケースバイケースでなるべく公平なゲームができるように、この障がいの分類という立場から試合名の横にコードがついていることがわかる。障がい像というものはあるだけそれだけで多様性を意味する、人々の分類を巡る深い問題なのだ(誤解が生じないようにあらかじめ言っておくと、これはもちろん彼らを侮辱するために言っているわけではなく事実上分類がサポートする上・あるいは競技を行う上で必要だという事実に基いて言っている)。

障がいがあるということは多様性、すなわち、ダイヴァーシティがあるということを表す。これすなわちメダルの色だけを追い求められる単純なことでもものでもない。もしそうであるのであれば、オリパラの区別は不必要なはずだ。なぜパラリンピックは障がい者の世界的なスポーツの祭典なのか、ということを考えれば、その背後に彼らの不自由な多様性、逆さにすれば、不自由ゆえの自由な多様性が示されていることには誰もが納得いくはずだ。できないからできない、だけではないのだ。できないからできるということもあり得る。それを今回 『オリンピックよりもパラリンピックの方が面白い』 という意見を聞き感じたことなんである。おそらく英語圏で言われるダイヴァーシティ、とはそういうもののことなのだろう…