なぜ今『ローグライト』なのか? | ゲヲログ2.0

なぜ今『ローグライト』なのか?

私たち人間の周りの環境は、あまたが”繰り返し”で実行されたプログラムであると考えることもできる。朝起き、やるべきことをやり、帰り、寝る。まさに”繰り返し”が連続している。その生活様式がいくら多様になろうとも、種別でみて大体20種程度しか挙げられない方は多いだろう。テレビを見る・インターネットをする・おやつを食べるなどいくつか細かく挙げてみても、それは実に限定的な数量しか計量できない人生の要素数が確かにある。プログラミングでもループ処理というものがあるが、あれと同じだ。世界は常に書き換えられており、コードとして偏在する情報体としてとらえることも可能である。世界の書き換えの中に位置するひとつの人間の送る人生が私たちの人生そのものである。

聞けば、人間の脳はある種の嵐である磁性体の要素を持つものだという。脳の科学的動機においてわかっていることだ。目を開いて、ある花を見る。次に目を閉じて、さらに目を開けたとき、同じ花の姿形が光彩に映る。その花の姿形は全く同じであるはずだ。そうであるのであれば、その花の傍観者たる人物は同じアルゴリズムで動いていると捉えるのが当然である。だが、二回目に花を見たとき、その神経系の挙動は離散的で散逸している。同じテクスチャをとらえているのにもかかわらず、同じ行動を追認しているのにもかかわらず、その背後にゆらめく脳的なアルゴリズムは違っている。これはよく考えれば、矛盾であるが、同時にその矛盾そのものが観測的事実なのだ。

同じことを繰り返しているのにもかかわらず、同じ行動を踏んでいるのにもかかわらず…我々の人間の挙動は違っている。広義のローグライトという話についても同じことが言える。我々はシチュエーションを繰り返し、そこから次への価値観を学び取る。次に同じことを繰り返そうとするとき、その挙動は明らかに違っている。だが、花の例のように到着点は同じである。目標の達成のために人生がある。その目標を達成するため、夢をかなえるために行動に創意工夫をする…

漫画「ドラえもん」にも同じような提案がある。のび太の子孫であるセワシは未来ののび太を訪ねてこういう。

未来が変わったら君(セワシ)は生まれなくなるはずだ。なぜ未来を変えようとするのか?未来を変えれば自分の存在が危うくなるではないか?その時、アイデンティティはどこにあるといえるのか?

セワシの答え:難しいことではない。君が大阪に行くとするだろ?その時、新幹線に乗ろうが、車で行こうが同じ大阪にたどり着くわけだ。つまり『未来のプロセスは変わっても結果は同じ』なんだ。

これは実に脳の離散的アルゴリズムやプログラムにおけるローグライトの思想と妙に似ている。花の例でも、脳のアルゴリズムが導き出す結果は同じだが、プロセスは違っていた。プログラムにおけるローグライトも導き出す結果は同じだが、プロセスは違っている。

おそらくセワシが言っているこのうちの答えのひとつが間違いなく『選択的未来の分岐性』である。つまりこの世界は何個もあり、繰り返しの中で、プロセスを常に変えている。そこで選択的なプロセスが多層にプロットされる。だが、その選択性が分岐性を乗り越えたとき、同じ結果が導き出される。そこにおいて、多層存在するプロット・プロセスはあまり重要なことではなく、結果によって常に現実はフィードバックされる。多少の矛盾は問題ではないという点では、『予定調和』のうちの一つの在り方だろう。

かつてライプニッツは(ニュアンスは違うが)そのように述べた。決定論という物理学上の問題はラプラスによって悪魔的に唱えられた(いわゆる『ラプラスの悪魔』)。その後、量子力学による決定論への否定的見解や熱力学の法則(『エントロピー増大の法則』)が提唱され、さらにエヴェレットは独立して『多世界解釈』を唱えた。哲学的には、ニーチェは『永劫回帰』(時間は無限だが存在は有限なので同じことをローグライト的に人間は繰り返す)という概念を提唱し、その存在決定論的な論拠がナチに利用され、凄惨な虐殺と大戦という歴史的悲劇を生んだ。

我々がローグライトを考えるとき、それは実は深淵な謎につながっている。なんにせよ、追体験というものはシステムへの理解を示そうとする、哲学的プロセスである。なぜ今『ローグライト』なのか?かつてドイツの思想家たちは存在的実行論に惑わされ、ヒトラーという悪魔を生み出した。その後も、ローグ的体験は思想的過激派というあまたの『存在および実行的危険性』を世界各国で生んだのだ。

“God does not play dice”-Albert Einstein