競技型ゲームでなにをやれば強くなれるのか?ウメハラの著書から学ぶ一番重要な”○○”その2 | ゲヲログ2.0

競技型ゲームでなにをやれば強くなれるのか?ウメハラの著書から学ぶ一番重要な”○○”その2

前回の続き。ウメハラは日々のメモを基盤として、その上で、”努力と練習”こそが重要だという。本書によれば、ウメハラは年末年始を除いて毎日練習する…という。

・努力とは何か?

努力とは、目標(相対して目的は『成長し続けること』とある)達成のため、目的を効率よくサイクルベースで回すことである。目的は成長し続ける日々のステップであり、目標であるゴールとは違う。ふたつの概念を意識する上で重要であるのが質重視の練習である…とウメハラは説く。

・サイクルとは何か?

サイクルというのは日々の練習環境を整えるための規則正しい生活習慣のコト。課題を効率よく吸収して成長することこそが練習の本質であるため、質重視の練習のほうが量重視の練習よりも重要だとされている。自分を痛めつけることは体罰と同じようなもので、意味のないことなのかもしれない。

・アスリートとの比較

ここからは私見になるが、おそらくアスリートもそうだと思う。若いころは練習は量重視だったというアスリートは多いが、年を取ってから継続的に戦い続けることのできる環境を整えるためにアスリートが良く言うのが、質重視への転換である。純粋なアスリートと同じく、ウメハラもe-Sportsアスリートなのだ。

結論:その先にあるもの

”成長し続ける”ということを達成していくにあたり、実は地味なことのほうがずっと重要に思えてくるらしい。というのも、格ゲーをある程度極めてからは、勝つことよりもうれしいことがある…とウメハラは言う。それが”気付き”であるというのだ。日々の気付きは小さな発見である。大きな目標を達成することよりも、成長という目的のための小さな発見のほうが嬉しく思えてくるようになった…との記載がある。

何もこれはこのことだけ、格ゲーの世界だけに限ったことではない。おそらく、ドラゴンボールに通じる作品論やそれら以上のもの・より高位な人生論に近しい論拠があるとあたしは思う。例えば、ドラゴンボールは読んでみれば誰もが理解できるし、自然とわかるであろう『強さのインフレーション』という主題があるが、作品全体を見てみれば、それだけではないのは明らかだ。

鳥山はギャグをところどころに配置して、強さだけでは語れない様々なミクスチャを、作品を通じて読者に呈している。人造人間18号とクリリンの関係、孫悟空と自爆セルとの界王星への瞬間移動ギャグなど、ちりばめられたアイデアにこそ、鳥山明にしか描けない世界観がある。そこには強さのみではなく、彼らの格闘を超えた、ストーリーがところどころ小さめに隠れている。ドラゴンボールはそもそもギャグタッチであり、路線変更したといういわば”修正主義”が存在するが、結果的に帰依しているのは、格闘を通じたミクロな人生のきらめきである。だからある種の境地に達したウメハラとドラゴンボールとの比較ができないわけではない。むしろ、小さな発見という点では広義の漫画論と通じているところがあるといえる。

また、人生論で論じられることもあるとあたしは思う。人間の生活は同じことの連続で成り立っている。そういう中で、ひらめきや発見というものは、非常に稀に起こる現象であることを我々は自然と理解している。つまり、格闘ゲームを通じて得た、ウメハラの発見というものは、実のところ、人生での発見に近いものがある。長く生きていると時間の感覚は自然と短くなっていくことは、証明されたことでもなければ、その証明は時間が関係するがゆえ、すさまじく難しい議題だが、ここではそういうこととはまったく関係がない。証明からではなく、経験から自然と、ひらめきや発見の希少性に我々は気付いているからだ。その”気付きの希少性”を感じる頻度は年月を経ていくにつれ数多くなる。ウメハラとの共通項はこのように、ある種の漫画表現や人生論に見出せる。

しかしながら、ウメハラにとって、こういった小さな発見といううれしさそのものは、自分の『強さのインフレーション』が衰退していくということと矛盾するものではない。これまでで一番強かった時期はいつか?と問われると、「今です」とウメハラは答える。ウメハラにとって、小さな発見はうれしくも、プロとしての強さへの執着を捨てるに結するものでない。彼にとって、ふたつは矛盾するものではなく、時同じくして立脚する概念である。すなわち、強さと経験的時間の経過は、彼の中で比例している。だからこそ…努力し練習するわけだ。