この世を忍ぶ電波系美少女バーチャルインターネッツアイドル文野純がメッタメタ遊んでメッタメタ考えて勉強するゲヲログ姉妹サイト...

2020年12月よりゲヲログ管理人ファメを寄稿者として迎え入れ、ゲヲログ2.0と部分的統合に至る。同時期に広告を全廃。

連絡は渉外課ファメのツイッターまでどうぞ

【脱LGBT論】抽象化・対象・美意識

【脱LGBT論】抽象化・対象・美意識

抽象化的な対象像を我々が思い描くとき、それは進歩性のないものとしてしばしば写像されてしまいます。例えば文学や音楽、絵画や映画、あらゆる物語に対して、我々が思い描く抽象化と言う概念は、それらを曖昧にしてしまって、ジャンルと言う概念を提唱するための境界線をなくしてしまうのです。物語に対する抽象化と言う概念は、進歩性を必然的になくしてしまうわけです。

例えば、文学、それは同じ様に。抽象化され難解な物語へと変化をする段階において、我々は物語を「語り続ける」ことができなくなる。太古からの物語が生きていた時代には、それは通常考えられるものではなかったですし、考慮されうるものでもなかったわけです。しかしながら、物語は進歩してゆくにつれて、複製性や先述した抽象化によって、物語の進歩性自体が必然的に必要とされなくなったわけであります。太古の時代からの物語が生きていた時代、そこには物語を作り上げるための儀式というものが、かつてはありました。それを克服することは現在では難しいといわざるを得ないでしょう。それでもなお、これを克服しようとするためには、ふたつの方法しか現在では思い浮かばないといえます。

まず、ひとつめ、太古の時代、物語が生きていた時代から、受け継がれてきた血脈を現状にても維持しようとする試みが、まずひとつめの手法です。正当な文学によって、模造品ではない、新たなる価値を、太古の時代から受け継がれてきた血脈でもってして語ることは、物語性の喪失に対する対抗策のうちのひとつであります。それでもなお、語り続ける、という行為がこれに該当しますし、それは現状ではいまだ可能です。しかしながら、そういった手法もまた、何度も繰り返され、ループした物語としてしか捉えられない時代が到来することは容易に想像できます。つまり、第一の、この手法は内部に非現実性を含んでいるとしか、断言することができません。

第二の手法、それは従来の価値観を転覆させ、ある種の革命を起こす手法です。これは、ある種の差別や格差、そういったものをつるし上げて、傍観してみるということでもありえます。また、そういった手法により、従来の価値観から、一歩外の世界へ動き出し、「それまで抱いていた価値観自体に対する傍観」を実現することでもあります。差別や格差・・・こういった概念を鼻で笑ってやることもそのうちのひとつでありますが、なんにしても、それを芸術として実現することはこれからも十分に可能だと思われます。もし、仮に、それらを芸術として、実現することに成功したのならば、これは第一の手法、すなわち太古の血脈による物語性よりも、永続性の面において非常に優れているのである、といえますね。

我々は基本的には、先述した二つの手法により、物語の抽象化から逃れることができるわけです。そして、それらを対象として、物語を捉えることができるわけです。しかしながら、ここで、しばし待って考えてみてほしいこともあります…これだけでは芸術は復活し息を吹き返すことまでは予見することができないのです。つまり、芸術の復活や復権のためには、現代のルネサンスが必要だということ。では、それを実現するためにはさらになにが必要なのか?

太古の時代、物語を物語として語ることが十分に可能であった時代、それは、はるか彼方にあるものであり、手が届くものでもないと、一般には考えられているわけですが…しかしながら、それでもなお、それは人間の内部性に、広範な「感情」という概念が必要とされなければならない(おそらく人間が事物から脱却する中で最終的にそれが解決されるでしょうが…それはまた別次元の時代のお話です)。無論反論の余地は十二分にあると思います。確かに「感情」という概念もまた、現代の社会においては、抽象化され、理想化される運命にあり、その”風化”を回避することができないとも思われます。しかしながら、人生に対して肯定的な価値観から我々の「感情」を鑑みると、それは私達にとって重要なメリットとなる。

「なんだ、感情も同じ単なるコンセプトだろう」という反論があるでしょう。しかしながら、高度に発展した社会やシステムの中においても、先に書いたように人間が体という”殻”(ハードウェア)から脱却しない限り、それは旧態依然として価値観の称揚のために重要です。例えば、私達は考える人という意味でホモサピエンスと呼ばれているわけですが、パスカルがかつて言ったように、考え思考を巡らすことで、我々の外界に思慮をめぐらすことができる。そこには主観がありどちらかといえばポジティブな感情が必然的に存在する。それを事実示したのは、ヤスパースのような立場、あるいは、チョムスキーの言ったことであっても良いでしょう。

感情を持つということは日常にもそれが溢れているということ。単なるコンセプトに過ぎないと言われても、我々は家族を持ち愛する人を持ち、友人を持っている。それぞれに”思慮・愛・友情”という概念を持っているのは確かな部分です。たとえ、それらが抽象化されたとしてもそれはもののない情緒なわけです。コンセプトに過ぎなくても…それは頑として存在する、この世に形のない、かけがえのないものだ、という綺麗事ではない論理はポストモダンの時代においても成り立つと思われます。

私たちが、現代の「感情」を考えるにあたって、その抽象化は避けることができないわけですが、しかし、その「感情」の抽象性というものは、「感情」自体、「感情」自らをより高次の次元へと押し上げる作用があるわけですね。

日本の女性は古来より、中性的な、ニュータライズされた”美しさ”を外面へと映し出すために、着物を着用し、胸を隠すための大きな帯を纏ったわけですが、その姿はいまもまた変化するものではないわけです。このケースですと、それはまさに”美意識”なわけですが、それも含めて現代の「感情」は古来より受け継がれ、その宿命により、我々に芸術性や物語性の復活を促す、いうのがこの論述のコアとなるものなのです。

同性愛・LGBTといった言葉や、中性化されたものや人に対する意識というものが再構成され注目を浴びるのは、そういう意味では必然性があると言わざるを得ません。我々はそこに美しさや潔白さや清廉さといった”憧れ”となる情景を無意識のうちに投影しているのです。