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池田信夫先生は法学を勘違いしているのではないか?―「新領域法学」という道(みち)

池田信夫先生は法学を勘違いしているのではないか?―「新領域法学」という道(みち)

以前から言っておきたいことだったので、法学、特に「新領域法学」についてちょいと考えてみます。俺も大学の先生とこの手の話はすることがあったのですが、これって実は柏にある東大のいわゆる「新領域研究科」とはまったく意味が違います(この手の話をすると勘違いが多いので初めに言っておく)。先生は東大の経済学研究科ご出身でしたが、やはり勘違いは誰にでもある(もちろん俺にもあると思う…)。先生曰く「それって柏の新領域研究科のこと?」っておっしゃってたから誰でもむしろ勘違いあります。でその先生とは別に池田先生が今度は別のある種の”勘違い”をしていらっしゃる(と思われる)。池田先生はご自身のブログメディアで法学の抱える問題についてこうおっしゃいます。

彼のような精神的幼児が東大教授になるのは、法学部には学問的業績の競争がなく、自分と同じ政治的見解の弟子を後継者にする徒弟制度が根強く残っているからだ。その教祖は社会主義者だった芦部信喜であり、その後任も「護憲論者」であることが条件だった。しかし石川氏の世代になると、憲法第9条を絶対化する法学者は、井上達夫氏のいう「憲法学カルト」の信者だけになり、まともな法学者は憲法学を専攻しない逆淘汰が起ったのだ。

彼の話を聞いていると、思い込みが強く、相手が何を質問しても同じ話を繰り返すのが特徴だ。話が論理でつながっていないので「**先生はこういっていた」という類の引用がやたらに出てくる。自分の言葉で説明できないからだ。頭は悪いが師匠への忠誠心だけで出世した、学者サラリーマンである。

日本の法学部は「法解釈学部」で、立法論を語る論理がない。憲法の文言と現実がこれほど大きく乖離したら、立法的にどうやってその距離を縮めるかを議論すべきなのに、彼らにとっては実定法が所与だから、解釈論しか論じることができない。そしてそういうカルト信者しか憲法学者にならないので、ますますカルト化する悪循環になるのだ。

(池田信夫 blog : 石川健治氏の「憲法学カルト」http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51976442.htmlより引用)

さて、じゃあこれは正しいのか?ここで簡潔に検証します。

みなさんご存知の通り、法学ってのはけっこう批判もありながら、法という支配的な概念、人間の欲求を抑えるために機能するものだということで、近代国家はほぼすべてが法治国家ということになり、ピンカーもいうように我々人間は平和な時間を過ごしています。ただし、そういった社会枠組みの中で多様性が培われてきてしまって、価値観もまた爆発的に変わってきた。するとなると、我々自身を束縛する法学が、法学として、あたかも文体として人間を価値観的に縛るという無理な論理が出てきたわけです。かつてサルトルが言ったように、我々は自由に生き生かされ、そして自由に縛られているわけですね。

するとなると法学もまたその内部にシステム的な不合理が生まれたということになり矛盾となる。となると法学はこれを置いておけない。というわけでレッシグなんかは著作の法学にシフトしていった。この肝となるのが山形先生が訳した本書「CODE」です。これはさらに俺の勘違いでもあったのですが、法学といってもレッシグの従来の専門分野は実は法学の中でも立派な主流派の憲法学なのです(これはWikipedia日本語版の彼の学問分野にでさえ実は記載があるぐらい)。こういうことになると、やはり「著作法学」とか「時間の法学」とかが絡んでくるようになったり、あるいは国際的なメディアや著作の権利的枠組みを再検証しようということで「新領域法学」という分野ができました。

対象はこれだけに限りません。メディア著作がらみ以外にもすでに挙げた時間を対象としたり知財ももちろん、心理学や環境工学だとかサイバーシステムだとかジェンダーだとか様々です。これらとからみあう法学すべてが一様まだおぼろげですが「新領域法学」ということなんですね。確かに池田先生の言うように日本の法学系の研究者にはまだまだ保守的な層が多いですが、事実変わりつつある法学の価値観の問題に関して言えば単純に「徒弟制の凝り固まった保守派」というゴシップは成り立ちません(もっともこの分野はアメリカで先達だっているので確かに池田先生が言うように日本は遅れとっていますが…)。

それだけじゃわからんだろうから、例を挙げましょう。今しがた、紙屋さんに提示した筑波の研究科には新領域法学を専門キーワードにする学者が結構いますし、長岡技大の専門研究科にもその手の研究者がいます(もっとも当然、彼らは俺なんぞやよりもずっと優秀ですけど)。今検索しただけでもこの分野で著名なのは名古屋大学の藤本先生だと思われます(名古屋大はイノベーティブなとこが文系にもある&藤本研にはここで説明するよりもずっと詳細が書かれているみたいなので詳細は一任させていただきます<(_ _)>)。たしかに池田先生曰く法学が日本では保守的だとする論理もある程度は通用しますが、全部が全部そうなのではないのです。すべて十把一絡げにして批判するのはある種の固定観なのでもうちょい熟考が俺自身必要とされている…そうひしひしと考える次第です。

もちろんこういうアイデアが法学の最初期になかったのか、というとそうではなくルーツを探ることはできそうです。例えばホッブズの著書にもそういうのがありますし、むしろホッブズvsスーパースター・ロックの仮対話篇としてすでに彼らの手により出版されてきているともいえそうです。ま、いずれにせよかつてのイギリス法の下では、多額の横領をしたのになんの罪にもならず、そのへんに落ちているごみみたいななんかのきれっぱしを盗んだだけで重罪になったりした判例がありますから、我々はそういう意味で「死者の亡霊に生かされている」わけです。その象徴が”女神さまが血で磨き上げてきた鏡、彼女の抱える剣と天秤である”わけネ。

(ちょいと修正点があるだろうのでここいらでまずは仮投稿とさせていただきます<(_ _)>)