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学校システム論の中の学校システム論

学校システム論の中の学校システム論

昔、小学校のころ、音楽の先生と口論になったことがある。ことの発端は先生が、「全校集会でふざけあいをしないように」と我々生徒たちを注意したこと。「この学校の評判の悪いところですよ」と言われたのでムキーっとしたあたしは、「別にいいんじゃないの?そんなの大人の世の中だって同じだし…」ってすかさず反論。そして、間を置かず、”学校は勉強しろと言われるところ”であり、それ以外ではない、とあたしは述べる。先生は言う「あなたは塾に通わせてもらってるからそのように言うんじゃないの?」これは絶好の機会だと思い、さらに反論する。「みんなが塾に通えるようなシステムにすればいいんですよ」ってね。

論がずれてきたところで、あたしはさらに攻勢を掛ける。先生曰く「みんなが塾に行くほど裕福ではない」とのことであったので、「もし仮にみんなが塾に行ってもそれが個々人の幸福感にたどり着くとは思えない」とあたしは述べる。「塾に行けば、学力の底上げはできるだろう。だが、全体の底上げにつながってもそれ(全体)が押しあがった分、特定の学歴や多様化した幸福感に結び付くわけではなく、塾システムがうまく機能するのは競争原理があるからこそだ」と言ってやった。「ここでもってして標準偏差という概念が導入されるのだ」と。先生はさすがにこれはびっくりしたらしい(笑)。曰く、「小学生の知能とは思えない」と褒めてくださったのだ!要するに学歴・学力観というのはこれはかなり難しい統計と価値観の問題なのだ。

たしかにあたしの言ったこと、それなり正しい論理だろう。標準偏差というのは統計上の簡単な定義で、「分散の(正の)平方根」をとったものだ。だが、どういったときに使うのかということはよくわかっていない方が多いだろう。たしかにあたしは先天的に、統計学の授業を受けなくても、標準偏差の概念は理解していた。統計上のばらつきを表す指標である。例えば、あるテストでテスターにおいてまったく同じ点数が続けば、偏差はない。テストでテスターに多くの分布が生じれば、ばらつきがあるので、偏差が感応できるのだ(めっちゃ簡単に言うと)。

学歴・学力というのはこのようにかなり難しい問題である。例えば、偏差がなければいいのか?というと、同じ学力を持った人が多くいればそれが社会的にいいことだろうか?という疑問につながる。同じ点数を多くの学生が持ったとしても、全体の底上げができているだけで、個々人の限定的な学歴につながらないかもしれない(正確に言えば、微妙な点差異で学歴が身につくかつかないかが決まることになる)。偏差があったら、これは言わずもがな、「格差」と言われるだろう(そして、「格差や貧困とは何か?」という問題にもつながる)。他にもキャリア(人生設計)の問題でもある。PISAの追跡調査によれば、日本人の学力維持はなされていないという統計的データがあることを、数学者の秋山仁も度々自著の中で述べている。学力が生涯にわたり定着しておらず、一過性の就職予備校として、大学システムはそれなり腐敗し成り果てているのだ。

”人生の設計図”について具体的に言うと、例えば、いい成績を取った人間みながすべてがいい会社に入れるわけではないというケースが挙げられる。個々人の価値観の問題でもある。ベンチャー企業に行きたいエリート学生がいてもまったくおかしくない。フィンランドはよくよく教育先進国というが、彼らの教育構成は複雑、修士号や博士号をもっていなければ、高等教育の上層部には関われないといわれる(そういうシステムになっている)。単に偏差値を学校単位で上げれば、それで社会的成果につながるとは必ずしも限らない。あたしの高校時代の理数科同期もみな有名な大学に入ったが、ミスマッチが就職後にあり、会社を退社しているのはほとんどだ(主に激務で)。

問題なのは、日本においては、こういった複雑な教育の概念や結果を教育学修士や博士の単位を収めていない教員が中等~高等教育の上層部にいることだ。少なくとも、日本の学校システムは見直さなければならない。学校の主任や教頭・校長になる教員免許の取得にあたってはもっと複雑なこの学校システム論に関する知識を身に着け、機会があるたびに見直してほしいものだ。そういった教育部上層は(例えば、校長は…)教育学博士号を持っている高度な人間的思考論を持ちうる人材に限定すべきではないか?冒頭紹介した論争の音楽教員はこのあたりが本質的にわかっている。だから彼女は(役職の高低とは関係ない部分で)偉い。本質的な問題を模索しようとする試みを生徒に提供してくれたからだ。

どうすれば、学校システム論は生徒の将来の幸福に寄与できるか?その学校システム論の中の学校システム論を深堀するいい機会がすぐそこまでやってきているのに対して、なかなか日本の知識層はわざと反応していないように思う。教職大学院の失敗はここに現れているとあたしは感じている。

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